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林海象監督作品「彌勒MIROKU」鑑賞

 10月18日、横浜赤レンガ倉庫にて、遅ればせながら林海象監督作品『彌勒MIROKU』を鑑賞してきました。

 Film Orchestra Versionということで、生演奏付きの映画は初めてで、当たり前ながらタイミングや音を間違えたりすることはないかと心配したり、音圧に驚いたりで、面白い体験でした。第一部の白と第二部の黒でモノクロのトーンも調整されていて、そのなかに弥勒像がストロボの光を纏うシーンや、ガラスの泡立つような特殊効果の変光星の映像、路傍の等身大写真の登場人物やシュヴァンクマイエルのアニメーションのような表現など、全体としてはざらざらとした質感がそれほど統一されず、モザイク的に連結されて構成されていました。学生映画的な軽さと実験映画的な要素がアマチュア的でこなれない印象を残しますが、生演奏も含めて、映画をファッションや知識や教養ではなく、一回性の体験として享受させる、そういう意図を感じさせる演出でした。

 稲垣足穂作品の映画を鑑賞するというのは、なかなか出来る体験ではありません(学生の自主映画では面白いものを見せていただいた経験はありますが)ので、 十分に楽しませていただきました。映画は『彌勒』の中の言葉にかなり忠実な形で作られていましたが、その分、読者としての不満も多少感じました。ただ、『彌勒MIROKU』が映画作品であるという性格上、稲垣足穂の原作の再現性を基準に評価することは空しいことですので、それらはひとまず抑制して、ここでは、その感想を記憶の定かなうちに述べておこうと思います。

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 まずはじめに、稲垣足穂の『彌勒』の読者としての素朴な感想を述べておくと、とても好感を持ちました。それは、「書くか、死ぬか」の二者択一ではない、「書くこと」における覚悟として、『彌勒』が描かれていたからです。

 足穂の『彌勒』後半部では、増富平蔵訳の『ショーペンハウエル随想録』やショーペンハウアーの『意志と現象としての世界』を引きながら哲学的な思索を展開する箇所がありますが、そこでの「江美留」の逡巡は、自殺をするしかないような窮状であるけれども、自殺をすることはどうしても出来ない。そこであらためて、自分に出来ることは何かという終わりのない問いかけが繰り返されます。アルコール中毒で、お金も持ち物もすべて飲みしろに代する生活の中で、自分を徹底して見つめ直す。そこでいわばショーペンハウアーの「自殺論」が窮状の中でも生きていかねばならない江美留にとって一つの天啓になるわけです。「Saint」の境地です。この天啓は、冒頭の「コエベル博士」のエピグラフと共鳴し、神の国へ至る道というキリスト教的な主題を呼び込んできます(これらの議論の詳細な背景は本HPで公開中の拙論をご参照下さい)。

 しかし『彌勒』において重要なのは、この宗教的境地や「救い」ではなく、やはり、「書くこと」が江美留のなすべき仕事=客観的事業として改めて見出されている点にあります。「Saint」や「彌勒菩薩」というキーワードからも、後半の「自殺論」からも、ある種の宗教的な主題で読まれることが多かったわけですが、これが「救い」であれば、最後で江美留が自分らしくあることを受け入れ、自分こそ弥勒菩薩であると悟る場面は、傲岸なナルシシズムか、「デウス・エクス・マキナ」になってしまいます。『彌勒』という小説に読者を惹き付ける核心があるとすれば、それは「書くこと」の絶対的な重さではないかと私は思います。自分を徹底して見つめ直したさきに、そこに見えてくるのは、「書くこと」のみであったと。そしてそれは「救い」ではなく、再認識であり、「書くこと」は自分自身を受け入れて、生きてあることであって、終わることがない点はきちんと映画でも表現されていたように観ました。

 舞台挨拶で主演の永瀬正敏さんが「単純な話」、「ぼくらが映画を作ったり、役を演じたりするときに繰り返している、あれ」と話していたのが印象的でしたが、映画『彌勒MIROKU』が『彌勒』から非常に明確なストーリーを抽出して描いていることに説得力を感じました。これは恐らく、林海象監督が『彌勒』を自分のストーリーとして読み、自分のストーリーとして撮ったからで、それは非常に正しいアプローチであったように感じました。そして、『彌勒』が持つ主題に動かされた自分をも思い起こしました。何かを表現することは、自分自身を徹底して問い直すことであり、それは厳しく終わりがないことだが、だからこそ人は生きているのだ、というきわめて普遍的なメッセージです。

 もちろん、ここで付言しておきたくなるのは、『彌勒』をうまく解釈し、単純化した部分を評価したのではなく、映画というメディアを通して『彌勒』を変奏する上で、効果的な再構成をしている点に好感を持ったということです。

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 最後に、いくつか勝手な感想を付け加えておきたいと思います。それは、『彌勒』というテクストの複数性についてです。『彌勒』には多くのヴァリアントがあり、「コリントン卿の幻想」(「文芸世紀」昭和14年12月)として前半の前半、「彌勒」(「新潮」昭和15年11月)は後半部で、戦後になってそれらが合わさり、加筆があってはじめて小山書店刊の『彌勒』となりました。しかしその後も改訂は行われ、「作家」(昭和32年12月)での改訂、『稲垣足穂大全』?(現代思潮社、昭和45年2月)収録時の改訂など、幾度かの大きな改変がなされています。これらのヴァリアント考証については松山俊太郎氏の「弥勒から弥勒まで」(稲垣足穂『がんじす河のまさごよりあまたおわする仏たち』所収、第三文明社、昭和50年10月)と大崎啓造氏の「弥勒が弥勒になるまで」(「ユリイカ」9月臨時増刊、平成18年9月)を、拙論「稲垣足穂『弥勒』論」と合わせてご確認いただきたいところです。

 とりわけ触れておきたいのは、「弥勒」の複数性についてです。

それならば、あの耳飾りと宝冠をつけた銅版刷の菩薩も、二十世紀に立返っているのではなかろうか、と彼は考えてみた。ではそれは何処に居る? 細く新月形に光った金星の尖端に、木星の表面をじりじりと冬の蠅のように匍って行く衛星イオの陰影のなかに、メタンの風吹きアセチレンの波立ち騒ぐ海王星の懸崖上に。――ヒューメーソン博士が撮影した星雲のスペクトラムの中に。そうしてまたこう考えている自分の大脳の中にも、おそらく数ミクロンの光束となって納まっている?(『弥勒』)

 この弥勒菩薩の〈遍在〉のイメージは、映画のなかにも登場し、重要なキーになっているものですが、やはり、広隆寺の半跏思惟像のみが象徴化されているのは、私には違和感があります。足穂がはじめて広隆寺の弥勒菩薩像を見に行った話は、「未来仏への思慕」という文章として発表されていますが、それは京都移住後のことで、小山書店版の『彌勒』刊行後のことです。足穂が小山書店版までの『彌勒』のなかで想起する弥勒菩薩は「コギト」昭和14年7〜12月号の表紙を飾った「李王家博物館 金銅弥勒菩薩 三国時代」という註の付いた「昆虫めく彌勒」でした。これはいまネット上で検索しても画像が見つかりませんが、広隆寺の弥勒菩薩のような少年のような丸みを帯びた仏像ではなく、「ハイカラーもここまで来ると、双曲線的だ。」と感嘆したのも頷ける、人を超越した造形です。これは「救い」にのみ関わる存在ではなく、「書くこと」を掻き立てる存在、少年時代の童話の世界につながる存在としての弥勒菩薩なのです。

 このように足穂の『彌勒』には、「コギト」の弥勒菩薩と、百科辞典のページで見つけた弥勒菩薩の記述と、改訂後に重ね合わされる広隆寺の弥勒菩薩のイメージ、さまざまな弥勒菩薩が重層的なイメージとして刻まれているように思えます。自分のような存在が菩薩であってもよい。いや、それは自分の大脳の中にもいるかもしれない。といった「遍在する弥勒」のイメージの形象化は、映画ではストロボの光を纏う弥勒像の映像によって表現されていたわけですが、京都という土地柄やその造形の美しさもあって、広隆寺の弥勒菩薩像のレプリカが使われていたように思いますが、どこかにハイカラーな「コギト」の弥勒菩薩を使って欲しかったように思いました。まあ、映画に対しては勝手な注文でしかありませんが。

「書くこと」しかできない存在としての江美留を強調するために第一部はある程度再構成されていましたが、「彌勒」で引用されている、佐藤春夫に送った手紙の中の一文、「たそがれの人間」の一節が使われているのもよかったです。

「何處かの王様が、その不思議な國か、偉大なる鳥籠のやうに美しい邸宅かへつれて行つて養つてくれればいい。さうすればいい。さうすれやその人のために一生懸命、珍しいことを考へてやるのだが」(「たそがれの人間」、佐藤春夫『幻燈』新潮社、大正10年10月、129頁)

 佐藤春夫の「美しい町」の一節も同じ意味で「彌勒」の中に引用されています。

「一體ただ自分自身の興味にばかり没頭し、地上の事を思ふより雲の色彩や星の運行を見るやうに出来てゐる私」(「夢を築く人人」、佐藤春夫『幻燈』新潮社、大正10年10月、227頁)

 これらは足穂が描く童話の世界というより、世界を童話として眺めてしまう人間の困惑であり、第二部の江美留の存在を引き立てます。ガラスの気泡を変光星に見立ててしまうような中年男の、無慙な現実につながるわけです。江美留はルソーの『エミール』に由来する名で、小説内では第二部である女性に純粋すぎる彼を評してあだ名されたことが書き込まれており、ここでも第一部と第二部の時間は円環をなしています。映画の内容を断片的に思い出しては、『彌勒』という作品に立ち返る。映画を見た後で、もう一度作品を手にとって、読み直すことを要請する。そういう面でも、この映画に私は好感を持ちました。まずはこんなところです。

(2013.10.19 高橋記)

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