稲垣足穂(イナガキタルホ)
INAGAKI Taruho (1900.12.26〜1977.10.25)

 稲垣足穂は1900(明治33)年12月26日、大阪市船場北久宝寺町二丁目で、父忠蔵、母ハツの次男として誕生しました。1920年代から70年代まで活動したモダニズムの作家です。

 1921(大正10)年、佐藤春夫の知遇を受け上京、『一千一秒物語』などによって新時代を代表する新進作家として文壇に登場しました。その後関東大震災以後のモダニズムを牽引した新感覚派文学運動にも参加し、大正十年代は、エキゾチックで幻想的な月取り物語である「黄漠奇聞」(『中央公論』大正12年 2月)や、神戸を舞台としたハイカラでファンタジックな物語「星を売る店」(『中央公論』大正12年7月)など、新しい唯美主義としての童話風創作で独自の存在感を示していました。このころは「稲垣足穂」という漢字表記より、「イナガキ・タルホ」というカタカナの署名の方が流通していました。

 当時の作家評判記ともいえる「現代文壇一百人」という『文章倶楽部』(大正15年1月)の企画では、「――星と月夜の詩人――ブリキの玩具――エキゾチツクな作風――」とそのイメージが語られています。

 1930年頃からは文壇では振るわず明石へ帰郷、古着屋経営などに失敗。再び東京へ遁走し、低迷期の極限の貧窮と重度のアルコール中毒、キリスト教カトリックへの接近などにともなって、1940年頃から50年頃までの東京生活では厳しく自己を見つめるような『弥勒』をはじめとする自伝的リアリズム小説を執筆したことで知られます。

 そして1950(昭和25)年以後、篠原志代夫人との結婚を機に京都へ移住してのちは、名古屋の同人誌『作家』という自らの本拠地となる雑誌を得て、ヒコーキや宇宙論、少年愛に関するエッセイ、そして過去作品の書き直しなどに没頭します。この時代を経て、1968年頃から三島由紀夫、澁澤龍彦らによる再評価の気運が高まり、翌年に『少年愛の美学』で新潮社主催第一回日本文学大賞受賞します。この時期はタルホ・ブームともいわれ、多くの作品が刊行され、足穂はグラビアなどにも登場するようになります。1970年には『稲垣足穂大全』全六巻が刊行されましたが、1977年10月25日に病没しています。

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