「新感覚派、機械仕掛けの夢――稲垣足穂と活動写真のメディア論」


(本稿は、『千葉大学日本文化論叢』第6号(千葉大学文学部日本文化学会,27〜44頁,2005.6)に発表した、高橋孝次「新感覚派の夢――稲垣足穂と活動写真のメディア論」に一部加筆修正し、改題したものです。閲覧はもちろん自由ですが、このサイトからの引用は、許諾できません。引用に際してはお手数ですが、紙媒体である原典からお願いいたします。原典と表記が異なり、また、ネット上のデータは常時改変可能ですが、紙媒体は容易には改変が加えられない分、引用される文献としての公共性がより高いためです。本文中の引用に際しては、引用文内の「/\」は、繰り返しを表す「踊り字のくの字点」を代用したもので、またネット版では、本文・引用文を含めて傍点・圏点・強調点は省略してあります。ふりがなについては、その言葉のすぐあとに、括弧内で示しフォントを小さくして表しました。なお、本稿においては旧字体は適宜、新字体に改めて表記してあります。)

一 「新感覚」をめぐる誤解


 新感覚派に関しては、その文学史的な意義や新感覚派理論の定義、功罪など、これまでにも多くの議論が費やされてきた。ここでそれらすべてを確認することはできないが、例えば、磯貝英夫「モダニズム文学論の基盤―新感覚派を中心に―」(『日本近代文学』昭42・11)は、「その出発点において、どういう共通の運動論も持っていなかったこと」、「出発ののち、外部の人・千葉亀雄の命名による「新感覚派」という名をそのまま受身に採用して、それを以て新しい主張を展開してからも、同人のすべてがそれに結集したわけではなかったこと」などを挙げ、「全体に、『文芸時代』の運動は、その反響の大きかったわりに、理論も、――また実作も、実質のうすいものであったと言わざるをえない」と、新感覚派に対する幾つかの批判点をまとめている。

 こうした批判点は、新感覚派の中心的な論客であった、片岡鉄兵の談話にも見出せる。

併し新感覚派には理論はなかつたね。あれはたゞ勘で行つただけの話ですよ。だから自信がなかつた。たゞ自信を有つていつたことは、当時のリアリズムの消極的人生観に対する否定位で、これとても積極的な世界観を何等持たなかつた僕の悲しさで、体系的に樹立することは出来なかつた。

 『文芸』(昭10・11)に収録された「『文芸時代』座談会」のなかでの、しばしば引かれる片岡の述懐であるが、これに「所謂「新感覚派文学運動」なるものは、観念の崩壊によって現れたのであって、崩壊を捕らえた事によって現れたのではない。それは何等積極的な文学運動ではない。文学の衰弱として世に現れたに過ぎぬ。」という小林秀雄の評言*1を並置すれば、新感覚派へのおおよその批判は網羅できるだろう。

 片岡は「答案一つ」(『文芸時代』大13・10)や「道徳と感覚」(同、大14・9)などで終始、人類の滅亡を説き、中河与一は「新しい病気と文学」(同、大13・10)において「日本人の上に戦慄すべき病苦が襲ひかかつてくるだらう」と予言し、今東光は「明日の花」(同)で「近代の世紀末的な頽廃、苦悩、悲哀、懐疑は等しく吾等の時代になつて信仰の欠乏したことに起因する」と諭している。こうした、現在から見れば些か時代がかった彼らの物言いには、終末論的言辞と「新時代」への楽観的展望が奇妙に同居している。そして、第一次世界大戦や、ロシア革命、世界恐慌、関東大震災などに象徴される、世界的な歴史の転換期に直面した彼らは結局のところ、その「観念の崩壊」に半ば便乗し、それを半ば楽観的に、あるいは逆説的に語るのみで、新たな「積極的な世界観を何等持たなかつた」のであった。

 「新感覚派」という運動の外郭を成すはずの名称が、外部から受動的に与えられるという起源をもっていた事、新感覚派理論といえるような統一的な理論が提示出来なかった事、「当時のリアリズムの消極的人生観」を否定するだけで、それに代わるべき「積極的な世界観」を何等提示できなかったという事。こうした批判の要因を一言で言い表すことは容易ではないが、やはりそこには「新感覚」という一つのマジック・ワードを巡る、さまざまな混乱があったといえるだろう。新感覚派は常に、「新感覚」とは何か、という問いにさらされ続けてきた。如上の批判も詮ずる所、この「新感覚」というマジック・ワードの起源を問うものであり、その方法を問うものであり、内実を問うものであった。

 そして本稿の最初の行程は、これらの批判を超克してしまうような新たな「新感覚」の定義や、新感覚派の可能性の中心を探ることなどではなく、「新感覚」という曖昧な広がりを持った語が当時、新感覚派内部において実際にはどのように把握され、そしてそれによってどのようなものが「新感覚」的だと見なされるに至ったかを明確にすることから始まる。それは新感覚派を論ずるにあたってほとんど検証されることのなかった、「生まれながらの新感覚派」としての「稲垣足穂」を廻る論証となる。


 ひとまずは、この「新感覚」という語に関する混乱の様相から見ていこう。既成文壇側の論客の中心的な存在であった生田長江は、「文壇の新時代に与ふ」(『新潮』大14・4)の冒頭で、新感覚派を「勝手に新「感覚派」の意味に取つたり、「新感覚」派の意味に取つたりして見ても、それらの諸氏を一括した名称として格別適切らしくも感じられない」と、新感覚派の名称にまつわる混乱を批判して見せており、新感覚派側の論客であった赤木健介も「新象徴主義の基調に就いて」(『文芸時代』大14・3)で新感覚派よりも「新象徴主義」という名称が妥当だとするなど、新感覚派という名称の妥当性に対しては当時も内外で多くの議論がなされていた。

 例えば、生田長江が試みたように、新感覚派を二つに分けて考えてみればどうなるだろうか。「新「感覚派」」は文学における表現技法の新たな一派としての「感覚派」と考えてよかろう。自然主義的なリアリズムでは、描写の背後に作者の「人生観」や「内面」が見出せるとき、その描写のみでなく作品全体に「ありのままの自然」=リアリティが保証される、いわば小説の「形式」と「内容」の一体化(=「形式」の透明化)が自明となっていた。それに対し、新感覚派が主張したのは、あえて即物的な叙述を用いることで、一体化していた「形式」と「内容」を切断することであった。実質的にはこの方法・形式としての即物的・感覚的表現に重きが置かれたのが、新感覚派の議論の中心といっていい。

 そうすると「「新感覚」派」の方は、関東大震災以来に顕著に主張され始めた、鉄道や飛行機、映画、建築物といった急激に生活環境の変化した「新時代」の都市空間の変容と、それに伴う人々の身体感覚の変容、あるいはまた、先に見た「観念の崩壊」に居直る退廃的な時代感覚として「新感覚」を主張する一派ということになるだろうか。このとき「「新感覚」派」は、新感覚派が文壇において担った、漠然とした「新しさ」のイメージに近くなる。

 「新感覚派・既成文壇論争」*2の端緒を開いた片岡鉄兵の「若き読者に訴ふ」(『文芸時代』大13・12)は「既成作家が常に放つ新進攻撃の慣用語」として「新進作家などと云つても、何も新しい物を持たないで、単に表現法の奇を衒ふだけで、内容が新しくないのでは詰らない」という一文を挙げている。確かに広津和郎にせよ生田長江にせよ、同時代の新感覚派への批判は、かなり漠然とした「新しさ」といったイメージから、「如何にひゐき目に見ても、決して新しいものではない。」(「新感覚主義に就て」『時事新報』大13・12・14)、「そんな新しくも何ともない事を、新しげに考へたり、吹聴したりすることの舊さ」(「序にもう少し新しく」『新潮』大14・5)などと断じられているのであり、対抗する新感覚派陣営も、いつの間にかその内実よりも、彼ら自身の「新しさ」や既成文壇の古さを感情的に反論するという不毛な議論へと論争はスライドしていく。

この論争においては、新感覚派側がその「形式」としての感覚的表現の理論化を企図したのに対し、既成文壇側からは「新しさ」という漠然としたイメージから、「人生観」などに代わる、いかなる新しい「内容」が提示できるのか、といった批判を加えたのだが、議論は最後まで噛み合うことがなかったといってもいい。そしてこれらの議論は繰り返すまでもなく、両陣営が「新感覚」という名称に引き摺られた混乱であり、新感覚派側もこの「新感覚」というマジック・ワードに整合する統一的な概念を提示することができず、既成文壇側はイメージだけの曖昧さゆえに、表層的で感情的な議論に終始せざるを得なかったのである。

新感覚派の牙城となる『文芸時代』を創刊し、横光と並んで新感覚派の中心に位置付けられる川端康成は、新感覚派時代を次のように回顧している。
「文芸時代」のころ、私は新感覚派的であらうと強ひてつとめたところは、確かにあつた。しかし、自分に新感覚派の才質、たとへば横光や中河与一のやうな、また稲垣足穂のやうな新感覚的才質はあるのかといふ、自己疑惑は絶えずあつた。ひそかにあつた。*3

 ここで注目したいのは、川端が「新感覚派の才質」と「新感覚的才質」という二つの「才質」を弁別して記述している点である。この新感覚派における分類は、生田長江の「新「感覚派」」と「「新感覚」派」の区別と類似しているように見えるが、生田は両者を最終的には区別することなく、「ポオル・モオラン」の「夜ひらく」の模倣と、それ自体への批判に議論を帰着させている。それに対し川端は、「新感覚派の才質」と「新感覚的才質」という二つの「才質」を統合するような新感覚派の特質を提示しているわけではない。ただ新感覚派に潜在する二つの「才質」があったとする点で、生田の皮肉とは異なる。

 川端がこの二つの「才質」を意識的に弁別して捉えていたかどうかは知るべくもないが、少なくとも本稿では、横光利一や中河与一が担うことになる「形式主義」の徹底へ向かう「新感覚派の才質」と、稲垣足穂に代表される「生まれながらの」「新感覚的才質」とに新感覚派を弁別して記述していきたい。

 誰が真に新感覚派的であるのかといった議論は、実は当時も盛んに行われていた。「新感覚派として一括された人々の間には、さうした命名を有難く思はないのみならず、寧ろ迷惑に感じてゐると言ひ出した二三氏もある」(「文壇の新時代に与ふ」前掲)と生田が皮肉ったように、自ら新感覚派という名称を拒絶したものもあり、また片岡などは「新感覚派の表」(『新小説』大15・4)で「世人が云ふやうに『文芸時代』同人全部が新感覚派であるのではない。同人の中でも、自ら「自分は新感覚派ではない」と宣言した人もあり、かつその作品が決してこの派の範囲に入らない人もある。特に著しい新感覚派の作家は同人の中でも僅かに中河与一、川端康成、横光利一、私などの数名であると云つても好い。」と新感覚派的である同人を限定し、更に「同人外でも稲垣足穂氏の如きは正に新感覚派であると云つても好い。」と同人外でも新感覚派的な作家がいることを主張して、新感覚派という枠組みが、党派的なものでなく、「新時代」に普遍的な枠組みであることを強調している*4。

 「新感覚」という語の指示内容のズレや、そこから来る「新感覚派」という枠組みの曖昧さが、こういった分かり易い「作家の分類」を要請したことは容易に想像できるが、本稿がこれから見ていくのは、川端や片岡の分類において、常に新感覚派の周縁的な存在として挙げられている、「稲垣足穂」についてである。

 「新感覚派にもっともふさわしい資質の作家」*5とされながら、「新感覚派にさきだつて独自の「新感覚」を樹立していた」*6、あるいは「新感覚派作家の中でも本流たりえないほどに、生粋の新感覚派であつた」*7といった形で、稲垣足穂はいわば生来の「新感覚的才質」ゆえに、新感覚派としては周縁的な位置付けをされてきたようなのである。このような「本流」と「生粋」の新感覚派の差異といえるものは、これまではっきりと論証されることもなく、やはり稲垣足穂という作家の特異性にその問題は帰されてきた。

 稲垣足穂は当初、佐藤春夫の親炙に浴し、『文芸時代』創刊以前の大正十二年一月に、同誌の発行元である金星堂から『一千一秒物語』を刊行、一躍「新時代」を代表する新進作家として文壇に登場した*8。足穂は創刊から遅れること一年半、大正十五年三月号から『文芸時代』の同人に参加し、昭和二年五月に同誌が廃刊するまでは、ほとんど『文芸時代』の中心的な役割を担う作家であったといっていい。同人に参加する以前にも、足穂は数本の小説や評論を同誌に発表しているが、同人参加から廃刊までの一年余りの間は、保昌正夫が「この期間の『文芸時代』の創作欄、その他の欄を通覧すると足穂は最も活発に誌面に顔を出している印象である。」*9と述べているように、ほぼ毎月何らかの文章を発表し、「怪奇幻想小説号」(大15・8)では編集を担当、また『文芸時代』の広告欄では、かなり頻繁に足穂の『一千一秒物語』や『星を売る店』、『第三半球物語』といった金星堂刊の単行本の、目を引くようなしゃれたモダンな広告が、時には見開きで掲載されている。足穂が、横光や川端がほとんど書かなくなっていた『文芸時代』後半の、屋台骨であったことは間違いない。大岡昇平の『少年』という自伝*10には「「新時代」とはその頃芥川龍之介や久米正雄が、震災と共に出はじめた稲垣足穂や横光利一、川端康成などを呼ぶ時に使う、少しおだてをこめた呼称だった。」という回顧が見られるが、「新時代」という浮薄な呼称をまとい、横光や川端よりも先に立って名を挙げられる、当時の足穂の文壇における位置取りや、イメージの一端を知ることができるだろう。

 以下、本稿では『文芸時代』が新感覚派の牙城で有り得た、大正十三年末から十五年頃までの「新感覚派・既成文壇論争」の時代に照準を合わせ、多少とも理論らしいものを提示したといわれる、横光利一や川端康成の評論を基軸に新感覚派の理論の混乱を整理し、『文芸時代』同人の多く、すなわち、新感覚派の人々によって「新感覚派」的だと見なされた稲垣足穂のテクストや、彼らの足穂への評価と新感覚派の認識の枠組みを対照しながら検証していくことにしたい。それは「新感覚派の才質」と「新感覚的才質」といった新感覚派内部に潜在する二層構造、新感覚派が追究したとされる新たな文学の「形式」と、彼らが結局取り込み損ねた「内容」との乖離を廻って行われる。

二 横光利一と川端康成の新感覚理論


 「新感覚派・既成文壇論争」において、「新感覚派は、ただ感情的なことばを投げつけただけで、理論らしいものはほとんど提示でき」ず、「その点、多少とも理論らしいものを提出したのは、一四年一月の川端康成の『新進作家の新傾向解説』と、翌月の横光利一の『感覚活動』の両文」だとするのは、新感覚派の理論に対する常識的な見方であろう*11。

 磯貝英夫は前者を「新感覚派の軸をリアリズムからの主観の開放においたもの」、後者を「新感覚主義を悟性(理知)による感覚の再編成・合成運動とみなしたもの」として、「新感覚派理論としては、川端、横光のこの両論が頂上に立つものだ」と、理論活動としては不十分だとしながらも、この二論文を新感覚派理論の代表的なものとして掲げている。

 なかでも横光の「感覚活動――感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説」(『文芸時代』大14・2、のち「新感覚論」と改題)は新感覚派を論ずるにあたって、もっとも頻繁に参照される論文の一つである。「所謂〈新感覚派〉を論ずることは、殆ど横光利一を論ずることと重なる」*12と評される通り、近年の新感覚派への評価も、横光利一の思考実験や時代認識を通して行われることがほとんどで、とりわけ「感覚活動」はその生硬な文章や難解な論理展開にも関わらず、というよりむしろそれゆえに、重要視されてきた。

 横光の「感覚活動」が、カントの『純粋理性批判・上巻』(天野貞祐訳、岩波書店、大10・2)の強い影響下にあることを明らかにし、具体的に検証したのは、玉村周「横光利一に於ける「新感覚」理論」(『国語と国文学』昭53・9)であった。そのなかで玉村は、前節でも触れた「新感覚」という語の、指示内容の混乱について「自分たち「新時代」の作家たちが文壇において自己主張して行くための過渡的な手段として、自分がここで主張した分りにくい「新感覚」理論よりも、外側でとりざたされる〈新感覚〉をあえて利用して行かざるをえないというジレンマに横光はある」と述べている。つまり、横光が主張しようとする「「新感覚」理論」と「外側でとりざたされる〈新感覚〉」は異なるものであり、しかもあえて横光は戦略的に、後者を前者の理論に組み込んでいるというのである。

 ではその複雑な事情を解きほぐすために、横光が主張しようとした「新感覚」理論について少し詳しく見てみよう。

 横光はまず「新時代」における「感覚」は「その触発対象を客観的形式から主観的形式へと変更させて来た」として、物の見方、認識の仕方が時代とともに変化し、「客観的形式」から「主観的形式」に変わってきた、という前提から議論を始めている。「客観的」な認識方法とは恐らく、自然主義的な認識方法のことであり、客観的に確固として存在すると信じられてきた世界や、それに基づいた「人生観」が、決定的に揺さぶられ崩壊した第一次大戦や関東大震災の後の時代認識からするならば、ヨーロッパに興こった前衛芸術運動の如く、外在的に存在する客観的世界ではなく、人間に知覚された表象を「主観的」に再構成するといった「主観」重視の思潮へと、物の見方、認識の方法が変化していくのは理解し易い。しばしば引用される「未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総て自分は新感覚派に属するものとして認めてゐる」(「感覚活動」)という一節もその意味で理解できる。しかし、横光が主張するのは単に「主観的形式」の重視ということではない。

自分の云ふ感覚という概念、即ち新感覚派の感覚的表徴とは、一言で云ふと自然の外相を剥奪し物自体 躍り込む主観の直感的触発物を云ふ。

 これは「感覚活動」の最も有名な一節であるが、横光の議論において「主観」は、カント的な認識論を理論的根拠として、「感性」と「悟性」に分類されている。ここで述べられている「感覚的表徴」は、「主観」のなかでも「感性」の働きによって「物自体」(=世界=素材)から「直感的」に得られた「触発物」であり、この「触発物」を「悟性」の働きで理知的に再構成することによって「象徴化」された「触発物」は、「新感覚的表徴」となるのである。これでもまだ分かりづらいが、横光が主張したいのは「認識活動の本態は感覚ではない」ということ、すなわち「悟性」の認識活動こそが、単なる感覚を「象徴化」しうる、新しい文学の「個性原理」であるということであった。

 横光の「悟性」は、直観的に得られた世界(物自体)の断片を、再構成し、「象徴化」することのできる「理知的」な機能として捉えられており、世界(物自体)と直接接続しようとする自然主義的リアリズムではなく、人間の認識活動によって「象徴化」されたものこそが、新しい文学なのだとは考えていたのである。

 こうした立場に立てば「感覚派も根本から感覚派にならねば駄目だ」といった既成文壇からの「生活の感覚化」を求めるような多くの非難は、横光にとって作者自身の「人生観」とひと連なりの「生活」、即ち文学において扱われる「内容」自体の感覚化を求めている点で的外れであり、「悟性」による理知的な再構成を重視すること、つまり「生活の理性化」の方が重要となる。

 だからこそ、「新感覚派にとつては、生活が感覚的にならうとなるまいとそれは自から別問題となる」。これは「感覚活動」の二ヶ月後の、「新感覚派について」(『東京日日新聞』大14・4・22)中の一節だが、ここでは「新感覚派とは主義の名ではなく手段の名前である。内容の名ではなく形式の名前である。」と言明した上で、「感覚期が爛 期に達すれば、そこから大きな宗教が文学の内容となつて現れるにちがひない」、「一つの文学の形式について騒がないかぎり、とてもその文学の内容へは触れて行くことが出来ない」として、「内容」自体を切り捨ててはいないが、現時点では「形式」を「内容」よりも先行して議論すべきであると主張している。

 こうした横光の「形式主義文学論争」へとつながっていくであろう問題意識の変遷は、新感覚派の理論的変遷を検証していく上でも重要であろうが、やはり「生硬な哲学用語が氾濫していてなかなか横光の真意がつかみにくい」だとか、「飛躍の多い」、「明らかにカントを現代的に拡大解釈していた」などとされ、様々なアンビヴァレンスを往来するこの晦渋な論文が、当時の同人や読者達に広く理解されたとはどうしても考えにくい。

 一方、「この一文は「文章倶楽部」に掲載して貰ふつもりで書いたのである。だから、年少の読者の理解と云ふことが第一となつてゐて、理論を徹底させ得なかつた憾みがある。」という但し書きを持つ、川端康成「新進作家の新傾向解説――新感覚的表現の理論的根拠」は、横光の「感覚活動」より平易で、格段に分かりやすい。「その論旨のわかりやすさのために、以後の論者の多くは、この主観主義を踏襲して、自説を展開している。」とされるように、同時代的には横光のものよりも「『文芸時代』の軸となった理論」であったことはたしかだろう*13。

 横光の「感覚活動」もこの川端の論文の後で発表されたものであり、川端の議論を引き継いだ部分が多いことはよく知られている。例えば先の前提としてあった「感覚」の「主観的形式」への変化は、「自分があるので天地萬物が存在する、自分の主観の内に天地萬物がある、と云ふ気持ちで物を見るのは、主観の力を強調することであり、主観の絶対性を信仰することである。」という川端の「新主観主義的表現の根拠」を踏まえてのものである。また「そこには、一種の擬人法的描写がある。萬物を直観して全てを生命化してゐる。対象に個性的な、また、捉へた瞬間の特殊な状態に適当な、生命を与へてゐる。そして作者の主観は、無数に分散して、あらゆる対象に躍り込み、対象を躍らせてゐる。」といった川端の主張する「主客一如主義」は、横光の「自然の外相を剥奪し物自体 躍り込む主観の直感的触発物」という部分に活かされている。こういった川端の「表現主義的認識論」は、しかし、横光の議論のように屈折しながら「感覚」を退けて「悟性」を重視したりはしない。川端が強調するのは「ダダ主義的発想法」と称される「自由連想法」であり、新感覚派的な描写にあっては「心象の配列法が、主観に忠実となり、直観的となり、同時に感覚的となつて来た」とされるように、自由な主観(横光の「感覚活動」で言えば主観の一属性たる「感覚」や「感性」)の働きの解放こそが、「新感覚的な表現」の「理論的な一根拠」とされる。

 一口に主観といっても、横光は主観の中の「悟性」という理知的な働きを重視したのに対し、川端の主観は「多元的な萬有霊魂説」といった、ほとんど神秘主義的なあり方を示しており、「天地萬物」と「無数に分散」した主観が、ある種の形而上的な一致境に到達した地点に「新主観主義的表現」を見ているのである。このように横光と川端の主観の理解には大きな乖離が存在している。そして川端の「新主観主義」の方を新感覚派の多くの論者が踏襲したわけだが、この主観は詮ずれば、旧来の白樺派的な主観を更に強調するようなものでしかなく、それらとの明確な差異を打ち出すに至ってはいなかった。

 掛野剛史は「新感覚時代の横光利一―〈生活〉〈人生〉〈主観〉の磁場に抗して―」(『日本近代文学』平15・10)で、この「新感覚派・既成文壇論争」が盛んに戦わされた大正十三、十四年の文壇に潜在する言説として、「生活」や「作者」、「人生」、「人生観」等の当時頻出していたキーワードに注目している。これら無前提に文学の価値を決定してしまうキーワードに共通して内在する、作家の主体性、並びに人生観の重視を、掛野は同時代に支配的な認識枠組として詳細に検証しており、川端の「新進作家の新傾向解説」や、それを敷衍する形で自らの議論を進めた赤木健介、伊藤永之介の議論も*14、結局は「主観」から「作者」、「生活」、「人生観」と繋がる、「主観」の強調の主張であり、新感覚派における「主観」の強調も、当時の文壇の強力な磁場から自由でなかったことを明らかにしている。

(川端、赤木、伊藤らの新感覚理論は――引用者註)〈作者〉の姿を背景にした〈主観〉の力によって〈芸術〉に至るという〈主観〉の強調の主張であり、横光が考える「悟性と感性」によって操作される〈主観〉という概念を深化させた論ではない。横光の志向は新感覚派内部では正しく受け止められ、継承されているわけではない。

 掛野は「新感覚派の立場の多くは〈作者〉と〈主観〉の力をつなぎ、それをそのまま表現へと結んでいたのに対し、横光の「新感覚論」では、あえて〈主観〉と表現の間に「悟性」の働きを設けている。」という点に、辛うじて当時の支配的な言説の磁場に抗していた横光の「独特の立脚点」を見出すのだが、この大正十四年頃においては、やはり横光も新感覚派を「一つの強き主観の所有者が古き審美と習性とを蹂躙し、より端的に世界観念へ飛躍せんとした現象の結果」(「感覚活動」)としていたように、横光であっても同様に「感性と悟性」を統合して行使する「強き主観の所有者」を前提してしまっていることに関しては、変わりはないのである。

 横光はしかし、『文芸時代』の廃刊を目前にした「笑われた子と新感覚―内面と外面について―」(『文芸時代』昭2・2)に至って「見るが良い、今に主観的なものは芸術の世界では斃れるだらう。何ぜなら、主観で自己の概念を破り行き得るものは、寔に天才以外にないからだ。」と、新感覚派の多くが支持していたと考えられる主観主義を放擲する。内面=主観=天才を切り捨てることで、横光は外面=言葉を重視する、よりラディカルな形式主義へとシフトしていくのである。

 新感覚派が内面=主観を切り捨てたのちの「形式主義文学論争」では、横光と中河与一がその形式論の理論的中心にあって*15、「新感覚派・既成文壇論争」において積極的な論陣を張っていた片岡鉄兵、今東光、赤木健介、伊藤永之介といった論客は尽く左傾化し、川端や稲垣足穂もほとんどその論争に関与した形跡はない。この論争周辺の議論は別途検証が必要であろうが、それらは本稿で論じる余裕がないため、別稿を期したい*16。

 さて、近年の横光の再評価に付随して行われてきた観のある、新感覚派への評価のほとんども、やはり横光の形式論に新感覚派の可能性の中心を探るものが多い*17のだが、ここまで見てきたように、大正十三年末から十五年頃にかけて顕著な「主観」強調の主張と、横光の「悟性活動」の重視にその萌芽を見出すことのできるそれ以降の新感覚派の形式主義との間には、少なからぬ懸隔が認められる。やはり同じ新感覚派というカテゴリーに含まれるといっても、これらはある程度は区別して考えねばならないだろう。

 このように考える時、再び川端が示唆した「新感覚派の才質」と「新感覚的才質」という二つの微妙な区別が想起される。「新感覚派の才質」を代表するのが横光と中河であるという時、彼らの持つ「才質」は、新感覚的表現を徹底して理知的に、技術的に形式化しようとする形式主義に近い「才質」だと考えられる。そして同様に「新感覚的才質」は、新感覚的表現を強い主観の働きによって実現しようとする「才質」だと考えられるだろう。

 ただ強い「主観」の持ち主が、更に彼の「主観」を強調することで新感覚的表現が可能であるとするならば、当然の帰結として、この「才質」をア・プリオリに持つ者、いわば生来の、「天才」しか真の新感覚派になることはできまい。この意味で「主観で自己の概念を破り行き得るものは、寔に天才以外にない」と断じた横光は炯眼であり、より普遍的な文学の「形式」を追究した横光が、主観を切り捨てて形式化へ向かったこともまた、当然の帰結であったといえよう。

 しかし、本論考がここで見てみたいのは、この「新感覚的才質」を持つとされた稲垣足穂についてである。「新時代」を代表する新進作家として衆目を集めた「新感覚派・既成文壇論争」前後の短い期間、足穂は「新しさ」そのものであった。それはのちに「生まれながらの新感覚派」(瀬沼茂樹)*18と評されたことでも知れよう。足穂の「新感覚的才質」は、現在においてそれが積極的な意味を持つかどうかは別としても、その当時足穂が提示した短くとも強烈な「新しさ」こそが、形式化へ向かうことで新感覚派が取り込み損ねてしまった「内容」の萌芽と呼びうるものではなかったか、というのが本稿が提示してみたい一つの見通しである。

 次節では、足穂が『文芸時代』に発表し、大きな反響を呼んだ「WC」という作品を中心に、それらへの反響をも含めて検証し、いかなる内実が「新感覚的才質」と見なされたかを明らかにしていきたい。


三 イナガキ・タルホ――強き主観の所有者


 足穂は当初、「イナガキ・タルホ」と片仮名でその名を表記されることが常であった。佐藤春夫が『一千一秒物語』に寄せた有名な広告文、「童話の天文学者―― セルロイドの美学者―― アスファルト街上の児童心理学者―― ゼンマイ仕掛バネ仕掛の機械学者―― 奇異なる官能的レッテルの蒐集家―― さうして、アラビヤンナイトの荒唐無稽をまんまと一本のシガレットのなかに封じ込めたのだぜ?誰が?イナガキ・タルホがさ!」と当時のイメージを凝縮した行文や、『星を売る店』(金星堂、大15・2)のモダンな広告に付された署名によって浸透したものであろうか。

 足穂の処女出版である『一千一秒物語』(金星堂、大12・1)は、二つ年上の横光利一が処女出版『御身』(金星堂、大13・5)を刊行するより早く、一つ年上の川端康成が「掌の小説」を集めた処女出版『感情装飾』(金星堂、昭元・6)を出すよりも早い。金星堂は『文芸時代』の版元でもあったが、『文芸時代』創刊以前から、「イナガキ・タルホ」がいかに軽やかに華々しく文壇に登場したのかが分かるだろう。

 『文芸時代』大正十四年七月号に掲載された須田計一の漫画同人紹介「第一回新進絵評判」に登場した「イナガキ・タルホ」は「「舶来タバコのレツテルと耽美主義の芸術とが私通して生んだ混血児だよ」つてね。実際この気のきいた神戸の貴公子はたいそう話上手ですから……」と三日月にまたがる姿で描かれている。これを見た読者は足穂を同人と勘違いしただろう。実際に同人参加した翌月、大正十五年四月の『文芸時代』、「文壇波動調」欄には、「イナガキ・タルホに始めて会ふ、天下のイナガキ・タルホ、批位に作品と人間とピッタリしてゐる作家は又とあるまじ」とか、「タルホ、煙草の灰を舌になすりつけて得意也。国際的魔術とやら、灰をくひWCをのぞくタルホに祝福あれ。」といった同人参加を歓迎する文が寄せられているが、ここからは足穂が当時如何に浮薄でいかがわしい、しかしそれゆえに非常な新奇さをもって認知されていたかが判って面白い。

 この文に「WCをのぞくタルホに祝福あれ」とあるのは、足穂が同人参加以前に初めて『文芸時代』に発表した「WC(極美の一つについての考察)」(『文芸時代』大14・1)の反響に由来している。「WC」は、現在では足穂の「少年愛」モノの最初期のヴァリアントとされている、小説ともエッセイともつかぬようなテクストである。これは川端の「新進作家の新傾向解説」と同時に掲載されたもので、翌月号「文壇波動調」欄で川端は「稲垣足穂の「WC」は珍重すべき作品。大事にしよつて置いて、時々出して来て読むべき作品。その度毎に、物事を見る眼が新しくなる一つのヒントを与へられること受合ひ。」と記し、かなり好意的な批評を寄せている。川端はさらに『時事新報』(大14・1・4)の時評においても、重ねて足穂の「WC」に関する記事(「新人二人」)を書いており、この「WC」への評価の高さが窺われる。

 足穂自身もこの「WC」を発表した反響についての印象が深いようで、後年の横光への追悼文「新感覚派始末―横光利一の霊をよびもどすために―」(『人間喜劇』昭23・8)のなかで当時の様子を次のように回顧している。

その年の正月号にかいた私の「WC」は反響を及ぼし、当の横光氏から、「自分までが肩身の広い思ひがしてゐる」と、私の帰省先なる明石まで知らせてきたほどであつた。「この作者がいかに軽々と常識から浮び上がつてゐることぞ」かういふ意味のことを川端氏が新聞にかいてくれた。(中略)「WC」が好評だつたので、私は文芸時代同人に加入を勧められた。

 「当の横光氏」とあるのは、短篇を依頼したのが当該号編集担当の横光であったからだが、当時の反響は大きいものであったとみてよいだろう。

 「WC」は、「少年愛」を扱った、小説ともエッセイともつかぬテクストであると前述したが、ただその内容はといえば、「大便や小便は、事実吾々に一つの美感を抱かせるものではないでせうか?」という発見、即ちそのタイトルが示す通り「辻便所」(現在であれば公衆便所というところであるが)の薄い壁によって区切られた空間で、そこに溢れかえっている排泄物や汚物、寄生虫、あるいは壁の落書きといった、想像し得る限りもっとも尾籠な類のものに、ある種の「美」を見出すというものであり、そこには些か奇抜すぎる趣旨が展開されていた。それはもっとも身近な生活の上に見出される「美」であった。

 しかし、これは単に目を背けたくなるような尾籠な話であるが故に反響を呼んだというわけではない。川端が「WC」を高く評価したのは、「物事を見る眼が新しくなる一つのヒント」をそこに見たからであって、むしろその点にこそ留意しなければならない。

 片岡鉄兵は「新感覚」を、「感覚の新発見」ではなく「物の見方、考へ方、取扱ひ方の自然の方向であると共に、それは全生活の最初の第一」であるとし、「斯る感じ方、生活の方向等の新しさは、とりもなほさず、新時代に新しき認識論を樹立する前提となる」としていた*19。川端もこれを受けて「「新感覚主義」はこの「感覚の発見」を目的としてゐるのではない。人間の生活に於て感覚が占めてゐる位置に対して、従来とはちがつた考へ方をしようと云ふのである。そして、人生のその新しい感じ方を文芸の世界に応用しようと云ふのである。」(「新進作家の新傾向解説」)としている。彼らは新感覚派として統一的な理論を構築するにあたり、性急に具体的な新しい「物の見方」を必要としていた。そのとき、「WC」の提示した「従来とはちがつた考へ方」は、新感覚派にとっては恰好の具体例であったのである。横光以外の、多くの新感覚派の人々が「主観」の働きを強調することに彼らの新感覚的表現を根拠付けていたことは確認してきた通りだが、彼らにとって「WC」は新しい物の見方、感じ方、生活であり、それは強烈な「主観」の発露として受け取られたのである。

 では具体的に「WC」の「従来とはちがつた考へ方」を見てみよう。

美はあつてもとり立てて主張をするに及ばないとあなたが云ふなら、私は、いや或る見方によつてその美を高潮したら、フランスの散文詩にあるやうなハイカラなところまでもひきあげることができると云ひたいのです。(中略)つまりすべての美を発生させるになくてはならぬ條件である遊離のせいだとつけ加へました。大便といふものもさうした春の野邊で遊離されたら、優に一つの力強い美になるといふことをです。(中略)そのたまらなさに正比例してそこには、すべての古くさいセンチメンタリズムをぬきにした新らしい美が、沸ぜんとして醗酵をされ、ヒユーチリストがたたへた大工場の歯車と急行機関車にも似た不遜さをもつて吾々の心を打たうとしてゐるではありませんか?

 足穂は「理窟ぢやないんですから正直な心でおかんじになつたらわかるだらう」として、論理的な説明を回避しているが、大便などの不快なモノを「遊離」することによって、それが不快であればあるだけ「力強い美」、「新らしい美」となるのだとしているようである。この「遊離」という主観操作は、ここではその不快な「たまらなさ」自体を括弧に入れることで、その過剰さがそのまま「力強い美」として感じられる、といったものとして使用されている。不快で汚い糞便といった意味を剥奪、切断し、「遊離」することで、「たまらなさ」がそのまま「力強い美」となるというこの論理は、現象学的還元と呼ぶべきかもしれないが、非常な強烈さを持って受け取られたことは確かであろう。またここには、糞便などの強烈さ、力強さに価値を見出した、トリスタン・ツァラのダダとの親近性も指摘しておかなければならない。足穂の主張の背景には常に、前衛芸術運動の衝撃があり、我流であっても詩や絵画ではなく散文でそれらを表現しようとした、当時数少ない一人であったといえる。

 ただ「WC」のような足穂の主張は、新感覚派理論などといった形で理論化されたり、一般化されることはなかった。「タルホ君には、そんなシチムツカシイ批評は本当は不似合ひなんだ。タルホ君はそんな事はしてはいけない。彼は只彼の空想を楽しんでゐればいゝ」といった石浜金作の批評*20にも顕れているが、「主観」の強調を理論的な根拠に据えようとした新感覚派にとって、足穂は強烈な「主観」の持ち主であり、有り得べき具体例であって、新感覚派が見出した彼の「主観」には、「シチムツカシイ批評」が介入する余地があってはならなかったのである。

 ただ唯一、上田敏雄という人物が最初期の稲垣足穂論とでも言うべき文章を残している。既に「稲垣足穂の創作のモチーフとなるものは風景及び人類の遊離化の衝動」とし、それに「どんなものでもそれが芸術を目的とするかぎりは、それ相当のエスセチツクスの法則に遊離化されなければならぬ」と注釈を加えていた*21上田は、「稲垣足穂の近業に就て」(『文芸時代』大15・9)において、足穂の「近業」を次のようにまとめている。

 稲垣足穂氏の遊離主義。遊離による世界の発見。自働性の利用。機械主義の日本に於ける最初の廻転。タルホの功績は世界的にして日本文学の一大恩人である。日本に初めて情緒感情感覚によらないネオ文学が建設される。

 上田は足穂の「近業」を、「遊離主義」という言葉に代表させている。このアフォリズム風に始まる評論は、足穂を相当高く評価しているが、「遊離」ということを「情緒感情感覚によらない」、つまり既存の「人生観」などからの「遊離」と捉えている。それはある意味で、アンチ・ヒューマニズム、アンチ・リアリズムといえるだろうが、そこには「自働性の利用」や「機械主義」といった特徴が挙げられている。足穂自身もこの上田の評論は認める所である*22し、既存の「人生観」や自然主義的なリアリズムを切断したところに彼らの「主観」を位置付けようとした新感覚派にあって、足穂の「遊離」はその極端な達成であっただろう。そして、その「自働性の利用」や「機械主義」は、『一千一秒物語』のようなナンセンス・コント風の小品群から導かれたものと思われる。

 油絵のローデンバツハの夜に 黄いろい窓から洩れるギターを聞いてゐると 時計の螺旋のもどける音がして チーンと鳴るかと思つてゐるとこれは又! キネオラマの大きいお月さんが昇り出した  そして地から二呎ばかり離れたところで止ると その中からシルクハツトをかむつた人が出て来て白い花の上に飛び下りた オヤと見てゐると煙草に火をつけて 短いステツキをふりながら歩き出した ついて行くと並木路をズンズン歩いて行つた

 『一千一秒物語』の冒頭「月から出た人」の一節をあげたが、作品世界自体がキネオラマ(キネマとパノラマの合成語で、模型の見世物)のような一種の模型世界であり、そこにあらわれる登場人物はほとんど機械仕掛けの人形のような人々である。彼らは決して自らの人生観によって動き生活するのではなく、ゼンマイによって自動的に動くかのようである。ここには人間も生活もリアリティもなく、あるのはその機械仕掛けの模型のみである。川村湊は次のようにその特徴を述べている。

『一千一秒物語』の特徴は「お月様」や「帚星」や「ガス燈」が擬人的に扱われているということより、「自分」がいつもスラップスティック(ドタバタ)な「活劇」の被害者であるということのようだ。「自分」はつねに「はね飛ばされ」「つき飛ばされ」「殴られ」「倒され」る。そのたびごとに舞台の裏側でドッと笑う声が聞こえるようだ。それは浮浪者姿のチャップリンが、殴られ、倒され、追い回され、逃げ回るといった無声映画の滑稽なドタバタ・シーンを思い起こさせる。

 川村は『一千一秒物語』に登場する一人称「自分」に注目し、私小説の「私」がもつような特権性が一切剥奪され、「その他の事物と同次元で並存している」点にその独自性を認めているが、「はじけ散るような動きや疾走感には事欠かないけれど、そこには立体的な厚みや奥行の感覚が欠けている」としている。『一千一秒物語』の世界はチャップリンというより、ジョルジュ・メリエスなどの奇術的なトリックをちりばめた活動写真の方に、より近い。ここには現実から「遊離」された不可思議なモノしか存在せず、「自分」さえもそれらと変わらない。この「自分」は上田の言うような意味で「遊離」された人間であり、「イナガキ氏の人間人形時代は氏の芸術様式に外ならない」といった評*23もこうした部分に向けられている。足穂の「活動写真」への並々ならぬ傾倒ぶりもよく知られており、活動写真機が日本で最初に輸入され、公開された神戸で、幼少期から足繁く活動小屋へ通っていたこともまた、よく知られている。足穂の「映画論」を集めた『足穂映画論』(フィルムアート社、平7・11)なども出版されているが、足穂の傾倒が新感覚派時代の当時も周知の事柄であったことは、ここに言い添えておこう。

 以上確認してきたように、非常に新奇で特異な作品集とされた『一千一秒物語』が持つ特徴は、現実世界を直接描こうとするのではなく、当時の新興メディアである「活動写真」(映画)の中で描かれた世界を、もう一度散文によって再現するといった迂回とも言うべき方法によって得られたものであった。このような迂回にこそ、足穂が主張する「遊離」を考える鍵がある。そしてそれが「活動写真」のメディア固有の構造(自働性・機械主義)と関連させた思考であり、新感覚派時代の足穂の方法意識なのである。

四 イナガキ・タルホと活動写真のメディア論


 現実のリアルな世界をそのまま描写するのではなく、現実から作品を切り離し、迂回=切断することで、「遊離」させるというのが、『一千一秒物語』から読み取ることができる足穂の「新感覚的表現」の方法であった。この方法はしかし、一面として「はじけ散るような動きや疾走感」といった新しい表現の効果を得る代わりに、「立体的な厚みや奥行きの感覚」を失い、平板さに縛り付けられてしまったかのようである。こうした方法について、足穂は「形式及内容としての活動写真」(『新潮』昭2・6)なる評論で、それが何故選び取られねばならなかったのかという必然性を、「活動写真」というメディアの表象可能性に関わるメディア論的な視点から具体的に考察している。以下、その論旨を確認してみたい。それによってこの「遊離」の方法が「活動写真」という機械の性質に即して考えられることで、メディア論的な地平で芸術を定着させる方途を探っているさまを見て取ることができるはずである。

 まず足穂は、ものの「感じ方」に二つの「エレメント」、即ち「代数性」と「幾何性」があるとする。「代数性」は「事物そのものについての智識」を指し、「幾何性」は「関係についての智識」を指すという。つまり、「代数性」は現実世界をそのまま直接に感じ取るものであり、「幾何性」は「代数性」によって感じ取られたものを関係させ、再構成する、人間にのみ可能な「感じ方」を指している。これは横光の「感性」と「悟性」の分類にかなり近い枠組みといえるかもしれない。ただこの分類は「活動写真」に即してのみ考察される点で横光と異なるのだが、ここで足穂が強調するのはやはり、横光の「悟性」に対応する「幾何性」の方である。

 足穂は当時、既に「映画」という名称が一般化していたのにも関わらず、あえて「活動写真」という名称に拘っているが、それはうごくもの、機械であることを想起させる言葉でなければならないという彼自身の認識に拠っている。なぜ「活動写真」が機械であることが、その名称を呼ぶ毎に喚起されねばならないのか。それは、「活動写真」が「事物を記号的なものに翻訳する科学に足場をおいている」からだという。

 「本来は決していずこも切りはなされてはならぬ対象の具体的連続を、ただ都合のいい部分だけにカットし」、「それらの断片を或る一つの方則――この場合は歯車の廻転という抽象的な運動によって統率するのである。かくてカットにはじまる活動写真とは、組合せに終る活動写真ということになる。」つまり、本来の現実世界ではなめらかに連続しているはずの事物を、「活動写真」という機械によって「翻訳」する場合、そこでは必ず現実世界は断片化され、恣意的に組み合わせられたものにすぎず、「歯車の廻転」、「映写器の廻転」によって漸く統一されるという迂回=切断を経由しなければならないのである。

 しかしそもそも、「文学に文字を使い、ミュジックに楽符を用いるのもすでに一種のカットと組合せにちがいなかったが、その方法をこの世紀に生れた活動写真という様式ほど純粋に使用したものはな」いというとき、足穂が主張するとき、足穂の形式論の展望が見えてくる。

 文学は文字によって、音楽は楽譜によって記載される限りにおいて、現実世界を断片化して再現するしかない「活動写真」と大差ない。ここには、「世界」は断片化してしか捉えることができない、という認識が存在している。しかし、こうしたこれまでの「カットと組合せ」の形式を持った芸術のなかで、「活動写真」は、「全き機械」によって断片化された事物を、易々と連続性として統一できる点で「純粋」なのである。「自然にさからって行かねばならぬ私たち」にとって、つまり、自然主義的な立場の芸術が前提としている、「世界」をそのままに写し取ることができるという幻想が崩壊したのちの芸術家にとって、「世界」の断片の「カットと組合せ」である芸術を、「歯車の廻転」によって統一し、連続性(=全体性)を獲得することが可能な「活動写真」というメディア様式は、真に純粋な芸術だというのである。

 ここで想起すべきなのは、横光の「感覚活動」が、主観を「感性」と「悟性」に分け、「感性」によって「物自体(=世界)」から直感的に受け取られた「触発物」が、「悟性」の理知的な再構成によって「象徴化」し得るとしながら、その再構成の行為主体として、結局「強い主観の所有者」という動力源を措定してしまう同語反復に終わっていたことである。この足穂による「活動写真」のメディア論的な形式論では、横光の「強い主観の所有者」の座を、人間でない「全き機械」の「歯車の廻転」が占めている。ここで足穂は既に、「強い主観の所有者」という「天才」を前提とせず、機械の「自働性」をこそ、「新感覚的表現」の行為主体として措定していたのである。

 しかしここで足穂は、現今の「活動写真」における「形式を裏切っているゼロにちかい内容」に批判を加えていく。「形式としての活動写真があまりに科学的であるときに、内容としての活動写真がそれにしたがうべく、あまりに非科学的であった」と、広く世間に行われている「活動写真」の「形式」と「内容」の乖離がここで問題化されるわけだが、ここで足穂は、「形式主義文学論争」での横光らの形式論のように、「内容」を切り捨てるわけではない。いってみれば、足穂が主張するのは「内容」の様式化であり、「機械化」であった。「すでにして機械に俟つ抽象、それならば風景も人物もその方にしたがうのが得策」であり、「すでにしてだまかし、それならばメルヘンの世界へ一足とびをするなら間ちがいはない」という足穂の主張は徹底したものである。ここには『一千一秒物語』を始めとする初期短篇群の作品世界が想起されているのだろう。

 上田が指摘した足穂の「自働性の利用」と「機械主義」は、「活動写真」というメディア固有の様式によって導入された形式論として、初めて理解できる。

 ただ当然、そこには「活動写真」と「散文」という越えがたいメディア固有の差異があり、いかに文学が文字という「カットと組合せ」のメディアであっても、散文において「歯車の廻転」や機械的な「自働性」を導入する試みは、メタファーの域を出ないものであったと言わざるを得ない。「活動写真」がもつ非人間的なメディア様式を散文に移植することは、さらに大きな迂回を経なければ実現できないのである。

 そしてまた、現実世界を「遊離」、切断し、自働的に動く「人間人形」が演じるスラップスティックのメルヘン世界は、同時に、決定的なまでに読者という受け手への考察を欠いていた。徹底して感情移入を峻拒するこのアンチ・ヒューマニズムは、自然主義的リアリズムや「人生観」に代わる新たな「内容」を提示しえたのかといえば、それが十全に達成されたとは言い難い。しかしそれが、不徹底に終わった新感覚派の取り込み損ねた「内容」の可能性の種子であり、新感覚派の人々に「新感覚的才質」として評価された所の実質であったのだということはできるだろう。足穂の形式論はあまりに人間を拒否し続けたことで、逸脱してしまったのだ。
 本稿ではここまで、新感覚派における「新感覚」という語にまつわる内外の混乱を端緒に、「新感覚派・既成文壇論争」当時の、横光の「主観」における「悟性活動」の重視と、川端をはじめ新感覚派の多くの人々が支持した「主観」強調の主張という新感覚派理論の懸隔を、先行研究を参照しつつ検証してきた。そして、後者に強く支持された稲垣足穂に以後照準し、横光や中河の「新感覚派の才質」とは微妙に区別される、「新感覚的才質」の内実を考察するために、足穂の「WC」における「遊離主義」と、それへの反響をみた。そこには現象学的還元とでもいうべき現実世界の「遊離」(=切断)があり、『一千一秒物語』などの初期短篇に見られる「自働性の利用」や「機械主義」と、それらに由来する徹底したアンチ・ヒューマニズム、アンチ・リアリズムが、足穂の「活動写真」というメディアに関するメディア論的な考察によって裏付けられていく方法意識であったことを明らかにした。

 本論考は、稲垣足穂が本当に「生粋」の、「生まれながら」の新感覚派であったとか、「天才」であったということを論証しようとしたのではない。むしろ、なぜそのように評価されたのか、そのように評価されたものの実質は何であったのかを明らかにすることこそが、本論考の目指すトポスであった。足穂は当時の横光や川端、「新感覚派・既成文壇論争」や「形式主義文学論争」で盛んに交わされた言説を受容しつつ乱反射させ、また一九二〇年代に盛んに流布したメディア論的な言説をも視野に入れながら、自らの「新感覚的才質」を形成していったと考えられる。したがって『一千一秒物語』を執筆した新感覚派以前の当初に、そこまでの理論的な背景が構築されていたと考えることは不可能である。ただし、新感覚派という磁場の中で、足穂が積極的な役割を担い、自らのテクストを繰り返し意義付けるような活動によって、新感覚派にとっては夢でしかなかった「内容」の種子、つまり機械によって「人生観」を拒否した人間人形のメルヘン世界を描こうという試みは、今後新感覚派について研究するにあたっても、注目されてよいだろう。

 例えば横光利一「機械」(『改造』昭5・9)では、登場人物の行動や心理を支配し、駆動させている「メカニズム」が「機械」であった。横光の「機械」においても、物語を進行させる動力として「機械」が注目されているのである。横光は「形式主義文学論争」において形式論をより徹底させていくが、「形式とメカニズムについて」(『創作月刊』昭4・3)では次のように語っている。

 総て現実と云ふもの――即ちわれわれの主観の客体となるべき純粋客観――物自爾――最も明白に云つて自然そのもの――はいかなる運動をしてゐるか、と云ふ運動法則を、これまた最も科学的に、さうして、それ以上の厳密なる科学的方法は赦され得ざる状態にまで近かづけて、観測すると云ふ、これまた同様に最も客観的に、いささかのセンチメンタリズムをも混へず、冷然たる以上の厳格さをもつて、眺める思想――これをメカニズムと云ふ。(中略)さうして、文学に於ては、形式主義がメカニズムの現れとなつて現れ出した。

横光は、形式を徹底化することで、主観を完全に排除した、真に客観的な「文学」が実現できると考えている。つまり、「芸術家」のまなざしをこそ「機械」にしなければならないと考えていたといえる。この地点で横光は自然主義の理想とした境地へと近づいて見えるが、ゾラ的な自然主義が対象周辺の社会的環境や遺伝などの因果律を科学的な分析から描写したのに対し、この横光の形式論は描写をする視点そのものの機械性(メカニズム)を重視した点で異なる。自然主義が私小説へ傾いていったのに対し、横光のメカニズムでは作者は機械化し、高感度カメラのレンズのようなものとならねばならないだろう。

 そしてその横光に先行して足穂は、「内容」から主観を持った人間を完全に排除するために、人間を人形にし、人間の心理を機械の運動に変換しなければならないと考えていた。しかし「人間」をあまりにも極端に排除してしまったために、足穂は「自分」をも切り捨ててしまった。この二人の差異は、全く正反対のようで、極めて近似した方法意識ではないだろうか。

 ただ本論考では残念ながら、足穂の「活動写真」をめぐるメディア論的な考察と、「形式主義文学論争」などにおける横光らの言説とが如何に有機的に連関しているのか、細かく検証することはできなかった。また、「活動写真」のメディア論的形式論の基調音としてある「機械主義」について足穂は「われらの神仙主義」(『新潮』大15・4)などで盛んに論じているが、機械と芸術の関係について考察した板垣鷹穂編『機械芸術論』(天人社、昭5・5)など、昭和初年代に見られる機械主義、機械信奉との関連は、機会を改めて考察されねばならないだろう*24。そして、本稿で扱った「形式及び内容としての活動写真」の主旨をのちに足穂が書き直す契機*25となった中川四明『触背美学』(博文館、明44)との比較検討にも至らなかった。これらについては別稿を期したい。


*1 小林秀雄「様々なる意匠」(『改造』昭4・4)参照。

*2 平野謙編『現代日本文学論争史』上巻(未来社、昭31・7)の表記にしたがって、大正十三、四年の新感覚派の是非を巡って戦わされた論争を、以下「新感覚派・既成文壇論争」とし、昭和三年頃より新感覚派とマルクス主義陣営とで戦わされた論争を「形式主義文学論争」と表記する。

*3 川端康成「新感覚派」(『日本現代文学全集』月報九十七所収、講談社、昭44・10)参照。

*4 稲垣足穂の『文芸時代』への同人参加は大正十五年三月、片岡の「新感覚派の表」は同年四月であり、記述が前後するように見える。だが、片岡の原稿は「大正十五年二月赤倉にて」という付記があるように、足穂の同人参加以前に執筆されたもので、矛盾はない。

*5 三好行雄「近代文学史概説」(別冊国文学『近代文学史必携』所収、三好行雄編、学燈社、昭62・1)参照。

*6 保昌正夫「新感覚派文学入門」(日本現代文学全集六十七『新感覚派文学論集』所収、講談社、昭43・10)参照。

*7 瀬沼茂樹「作品解説」(日本現代文学全集六十七『新感覚派文学論集』所収、前掲書)参照。

*8 保昌正夫「金星堂の本など」(『名著復刻全集・近代文学館出版ニュース』日本近代文学館、昭44・6)は「イナガキ・タルホの処女出版、小話集『一千一秒物語』」について、「大正十二年一月の発行だから関東大震災(大正十二年九月)以前の本」であり、「つまりそれだけ少なくなっている度合いが大きいのだ。焼けのこってきた本は、いわば生きのびてきた本だ。新感覚派の文学は関東大震災以後の、いってみれば震後文学だから、『文芸時代』の同人で震災前に本を出しているものはさほど多くない」と、震災を経ても多く残存していた『一千一秒物語』の発行部数の多さや、その先駆性を指摘している。

*9 保昌正夫「足穂ノート―『文芸時代』前後」(別冊新評『稲垣足穂の世界』所収、新評社、昭52・4)参照。

*10 大岡昇平『少年――ある自伝の試み』(筑摩書房、昭50・11)参照。

*11 磯貝英夫「新感覚派の登場」(紅野敏郎・三好行雄・竹盛天雄・平岡敏夫編『大正の文学』所収、有斐閣選書、昭47・9)参照。

*12 栗坪良樹「解説」(日本文学研究資料叢書『横光利一と新感覚派』所収、有精堂、昭55・5)参照。

*13 磯貝英夫「モダニズム文学論の基盤―新感覚派を中心に」(前掲)参照。

*14 赤木健介「新象徴主義の基調に就いて」(『文芸時代』大14・3)、伊藤永之介「昨日への実感と明日への予感」(同上)。彼らは川端の議論を踏襲しつつも、マルクス主義との接合を目指していく。

*15 中河の形式主義に関しては佐藤千登勢「形式主義とフォルマリズム――横光利一と中河与一にみるシクロフスキイの摂取」(『比較文学年誌』平11)や、昭和十年代まで視野に入れれば、中村三春「量子力学の文芸学―中河与一の偶然文学論―」(佐々木昭夫編『日本近代文学と西欧―比較文学の諸相』所収、翰林書房、平9・7)などがある。

*16 北田暁大「〈メディア論〉の季節―形式主義者たちの一九二〇―三〇年代・日本―」(『東京大学社会情報研究所紀要』平12)は「形式主義文学論争」における横光らの言説に照準して詳細に分析、その論理を明快に図示して見せており、その「メディア論」という視点からの「形式主義文学論争」の読解は注目に値する。本稿との関連に限って言えば、北田は横光の形式論を、自然主義的なリアリズムにおいては自明であった「パイプライン・モデル」(オング)、つまり「作者→メディア→読者」という伝達図式ではなく、「文字の羅列」自体という「伝達そのもの」をメディアと見なすものとし、その徹底した「形式」への形而上的洞察は「作者の否認=作者の工学者化」と「読者の抽象化」によって貫徹されていたのだとしている。ここには後で見る足穂の「活動写真」のメディア論も当てはまる。

*17 近年の再評価を一瞥すると、小森陽一「横光利一における「速度」」(『成城国文学論集』昭62・2)は「形式主義文学論争」を論争の中心にあった横光らの言説から検証、彼らの形式論をソシュール言語学やアインシュタインの統一場理論との世界的な共時性の中での先端的な成果として評価しており、磯谷孝「フォルマリズムの冒険――横光利一の眼」(『国文学解釈と教材の研究』平2・11)は横光の形式論とロシアフォルマリストとの問題意識の近似性から横光の議論を概観している。それ以外に十重田裕一「「新感覚派映画聯盟」と横光利一―一九二〇年代日本における芸術交流の一側面」(『国文学研究』平11・3)など新興メディアであった映画と新感覚派との関連を考察するものもあるが、それらもやはり横光利一を中心としたものである。「横光がその派の爆心、中核であつたより、なほ強い原泉であつた。」(「新感覚派」前掲)という川端の証言は、現在の評価においても穏当な見解であるといえよう。

*18 瀬沼茂樹『大正文学史』(講談社、昭60・9)参照。

*19 片岡鉄兵「若き読者に訴ふ」(前掲)参照。

*20 石浜金作「タルホ・イナガキ君」(『文芸時代』大15・4)参照。

*21 上田敏雄「三つの小説」(『文芸時代』大14・6)参照。

*22 稲垣足穂「批評家を待たない」(『新潮』大14・12)参照。

*23 監崎良一「感覚芸術の延長線」(『文芸時代』大15・2)参照。

*24 横光利一「機械」(前掲)と当時の文化現象としての「機械主義」との交渉について論じた、日比嘉高「機械主義と横光利一「機械」」(『日本語と日本文学』平9・3)に示唆を受けた。

*25 『タルホ=コスモロジー』(文藝春秋社、昭46・4)には「形式及び内容としての活動写真」(『新潮』)が、その後、京都の俳人中川四明の触背美学を知ったことによって、改訂の必要に迫られた」とある。