高橋孝次「稲垣足穂のカトリック時代――「Saint」とケーベルの神秘思想」


(本稿は、千葉大学大学院社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書『日本近代文学と宗教』(2005.3)に発表・収録された、高橋孝次「稲垣足穂のカトリック時代――「Saint」と神秘思想」を一部加筆修正したものです。閲覧はもちろん自由ですが、このサイトからの引用は、許諾できません。引用に際してはお手数ですが、紙媒体である原典からお願いいたします。原典と表記が異なり、また、ネット上のデータは常時改変可能ですが、紙媒体は容易には改変が加えられない分、引用される文献としての公共性がより高いためです。本文中の引用に際しては、引用文内の「/\」は、繰り返しを表す「踊り字のくの字点」を代用したもので、またネット版では、本文・引用文を含めて傍点・圏点・強調点は省略してあります。ふりがなについては、その言葉のすぐあとに、括弧内で示し、フォントを小さくして表しました。なお、本稿においては旧字体は適宜、新字体に改めて表記してあります。)

一  カトリックと「Saint」


 いまでは、稲垣足穂が「カトリック作家」であると考える人は、ほとんどいないだろう。しかしこのヒコーキや天体やブリキの玩具を愛し、「少年愛」を語る作家は、短い期間ではあるにせよ、たしかに「カトリック作家」であった時代がある。伊藤整は「イタガキさんとニシガキさん」(『文芸』昭25・11)で足穂についての印象的な挿話を語っているが、そこで当時の足穂を「カトリック作家」と称している。その他散見される事例を見ても、どうやら昭和二十年代前半の足穂は少なからず「カトリック作家」であると認知されていた形跡がある*1。

 本稿では、従来ほとんど顧みられることのなかった、この稲垣足穂のカトリック時代について、中期の自伝的なテクスト群のモチーフとの連関から考察してみたいと考えている。

 先行言説においても、稲垣足穂のカトリック時代(昭和十八年〜二十四年頃)を論じたものはほとんど見られない。「十年来のカトリックが急に色褪せてしまったのも、一つにこのS・Hが、「宗教は自分の持っているいいものを失くしてしまうような気がする」と洩らしたことが相当に効いている。」(「東京遁走曲」*2)といった回想がしばしば参照され、いわゆる棄教の契機が語られることはあっても、足穂へのカトリックからの影響は積極的に論じられることはなかった。足穂自身、昭和二十四年十一月十九日付の篠原志代(のちの稲垣夫人)宛の書簡で次のように語っている*3。

 宗教は、殊に他力本願の真宗及びカトリックは、人間最大の病癖であるところの、傲慢心というものを打ち砕くべく、もっとも力になってくれるようです。
 たいていの人の憂悶愚痴、すべては「自己主張」にきざしているということが、世間には了解されていないようです。どこもかしこも生意気と空威張ばかり。これを訂正するに当たって、本当の宗教は力になってくれますが、そのかわり宗教そのもののトリコになって、びんのなかに封じ込められたようになり、にっちもさっちもいかなくなってしまう。真の宗教は、いったん宗教で鍛えて、宗教から脱する――これが解  放だと考えられます。
 芸術家としては、モーラリストに堕り(ママ)、とりも直さずこれは作家自身の衰退のきざしでしょう。でもこれはむずかしいところで、ぼくはただここに、こんな近ごろの理想を説いているにすぎません。

 後年の足穂自身、また足穂再評価期以後の先行言説によっても、このような「宗教そのもののトリコになって」しまう弊害が語られることはあれ、足穂のテクストにおける、カトリックからの影響や痕跡を見ようとする試みは、ほとんど皆無だったといっていい。

 右の書簡では、非常に限定的で特殊な宗教の有用性が語られているのだが、それに続けて「近ごろの理想」だと断りながらも、「芸術家」が「モーラリスト」、つまり道徳的行為を重視するようになることは、「作家自身の衰退のきざし」であるとする主張が説かれている。ところが、カトリックに関する右に挙げた書簡の主張とは全く正反対の見解が、足穂のカトリック時代のテクストには記されている。

 自殺が可能のうちは芸術にたいする信頼を失はずにゐることができる。しかし、自殺もなし能はぬ絶望に陥つて、人は芸術の限界をさとる。人はそのときに芸術による救ひの見せかけなることを知ると。「主」の名によらざるいかなる精進も結局は放蕩の一種である。青年の例にもれず、私も最高の人間的存在は芸術的天才だと信じてきた。さうではない。創造よりも貴いのは道徳的行為である。天才の上には「聖」といふ此世の規則とは全く性質のちがつたクラスがあつた。(「雪ヶ谷抄」『文芸』昭22・12)

「青年の例にもれず、私も最高の人間的存在は芸術的天才だと信じてきた。さうではない。創造よりも貴いのは道徳的行為である。」というこの見解が、前記の書簡とは正反対の主張であることは、誰の目にも明らかであろう。そしてこのたった二年余りの間に「芸術家」としての姿勢を決定する根本的な態度が大きく転回し、しかもそれが「宗教そのもの」に対する態度の変更と非常に密接に連関していることは、容易に読み取れる。一神教に近いといわれる「他力本願の真宗」もここでは含められているが、作家の年譜的な事実と照らし合わせるならば、この「宗教そのもの」への態度変更は、当時傾倒していたカトリックに対する態度の変更と限りなく近い形で行われたものと考えられるのである。

 ではこの態度変更以前、足穂のカトリック時代のテクストの記述について、これから詳しく検討してみよう。実のところこれは、『弥勒』(小山書店、昭21・8)など足穂の中期の自伝的小説群で主なモチーフとされる「Saint」に関わる認識を示している。「聖」(=Saint)という存在が、芸術家(=芸術的天才)よりも上位の倫理的存在であるというこの認識が、ショーペンハウアーに由来することはすでに拙論「変転する「弥勒」――『ショーペンハウエル随想録』をめぐって」でも述べた*4。この「Saint」という存在の発見は「弥勒」以後、「枕べの蕈」(のちに「世界の巌」と改題)や「白昼見」(『新潮』昭23・2)、「たげざんずひと」(『思潮』昭23・9)、「神・現代・救い――説話風に」(『素直』昭24・5)など、中期の自伝的小説群のなかで、繰り返しモチーフとなって顕れることになる。

 霊の存在は例の悪霊の一件から身にしみてゐたので、そんなふうにかれは考へを巡らせると、こみ合ふ銭湯の只中にあつて一抹の冷気を覚えるのだつた。それから鏡の前に出て行つて、力なくからだをふいてゐた。だしぬけに後頭部のはうから、電気のやうにSaintといふひびきが閃いた。今まで最高の人間的存在だと思ひこんできた芸術的天才の上に、これをはるかに凌駕した聖なる階級――それは理性よりもなお高い平和のうちにあり、不幸と窮乏と迫害のさなかにも喜びにみちあふれた一群がある――といふことに、かれはこのしゆんかんから気がついた。(中略)牛込に変つてSaintという字に気がついて間もないときであつたが、「意志と現識としての世界」の第二部を、夜店で買つたといつてかれにくれた人があつた。(「枕べの蕈」『思潮』昭22・6)

 これは「Saint」体験ともいえる場面の描写であるが、反復されるこのモチーフは、常に「悪霊」、「悪魔」などに苛まれている状況とともに描かれている。この「Saint」のモチーフを図式的に整理すると、@経済的窮乏、アルコール中毒の禁断症状、チフスといった直接的、身体的、精神的な苦痛がA「アクマ」、「悪魔」、「悪霊」として客体化、概念化、実体化され、その後B「Saint」体験が神秘的に語られる、といった一定の構造が確認できる。この「苦悩」→「悪魔」→「Saint」というモチーフが繰り返し変奏されるのが、『弥勒』(小山書店版)から「神・現代・救い」(前掲)に至るまでの、足穂のカトリック時代の自伝的小説群である。

 新感覚派前後の時代には文壇に広く名を知られた足穂であったが、昭和初年代にはその活動は低迷し、ニコチン、アルコール中毒の症状をもきたし始め、昭和六年の祖父母の死を期に故郷の明石へ帰省してからは、これまでの自作品の整理に没頭する。その後昭和九年に父を亡くしたのちは古着屋を営むなど、東京の文壇とは長い間遠かった。しかし、古着屋の事業にも失敗、財産を差し押さえられたため足穂は昭和十一年十二月に故郷を出奔して上京、東京大森馬込の衣巻省三方へ寄寓してからは、極限に近いような窮乏生活を送ることとなる。そして京都へ再び出奔するまで十五回以上の転居を繰り返し、昭和十二年頃から二十五年頃までの間は、当時の生活などを背景とした私小説的な、自伝的テクストを数多く書き残している。この時代の自伝的なテクストに描かれるのは、新感覚派前後の時代とは全く正反対ともいえる題材であった。それはすなわち、経済的に極限まで窮乏し、アルコール中毒の幻覚や禁断症状に悩まされ、昭和十六年十月にはチフスで死に瀕し、東京大塚病院に入院、その後も窮乏とアルコール中毒は止まず、昭和二十五年二月に東京から京都へ出奔して篠原志代と結婚するまでの、あらゆる苦痛と苦悩の生活である。そしてこのうち昭和十八年から東京小石川の関口教会へ公教要理の勉強に通っており、このカトリックへの傾倒は昭和二十四年の半ばまで続いている。

 新感覚派前後の初期にはほとんど短篇しか書いていなかった足穂が、ある一定の分量をもったテクストを書き始めるのがこの時期からであり、「長編を書こうとする新らしい意図と共に倫理や生活ひいては宗教といった主題への強い関心が生じて、他人のほどこしで辛うじて命をつなぐ再度の上京生活のさなか、『弥勒』(昭和二十一年八月)『彼等』(昭和二十三年十一月)を絶頂とする珠玉の〈一人称小説〉をものにしてゆく」*5時期などともされている。

 本稿では、足穂中期の自伝的なテクストのなかで繰り返される「Saint」のモチーフに内在するカトリック思想との連関に照準して、足穂が「芸術家」としての態度を大きく転回するこのカトリック時代の、自伝的なテクストに反復して描かれる「Saint」のモチーフがもつ意義について検証していく。それは従来顧みられることのなかった「カトリック作家」としての足穂の相貌を明らかにすると同時に、足穂がその長い作家活動の中で絶え間なく繰り返し続けた「変貌」の痕跡の一端を跡付けることとなるだろう。


二  日本天主公教教団


 「カトリック作家」であると言っても、どの程度の次元で足穂が「カトリック作家」と言いうるのか、具体的な検証に先立って確認しておかなければならないだろう。それにはまず、当時のカトリック教会の情況について概観しておく必要がある。

 従来、日本のキリスト教思想と言えばプロテスタンティズムのそれであることが自明であった。(中略)キリシタンの伝統の意識が依然強かったと思われる大正までの段階では、彼らが一つの世界観としてのカトリシズムを前面に押し立てて外部の世界に戦いを挑むという姿勢は必ずしも見られなかった。(半澤孝麿『近代日本のカトリシズム』みすず書房、平5・11)

 この半澤孝麿『近代日本のカトリシズム』は、大正期から昭和の戦前期など現在では見えにくい時代のカトリシズムの時代情況を、当時の中心的な役割を担った人々の軌跡を軸に描き出した労作である。半澤の記述によっても明らかだが、近代日本においてカトリック(天主公教会)は、中近世の「切支丹(キリシタン)」という人々に刷り込まれたネガティブな表象のせいもあってか、プロテスタントに比して広く影響力を持つことはできなかった。大正期にはカトリック系の出版社から『カトリック』や『光明』といった雑誌が創刊され、昭和初期には岩下壮一を中心に知識人へのカトリック教会からの啓蒙、布教といった活動が積極的になされ始めるのだが、日本が戦時下に突入するとともに、これらの機運は戦時体制へと巻き込まれていってしまう。

 戦時下では教会への厳しい言論統制へとつながってゆく上智大学事件、奄美大島事件などが起こり、カトリック、プロテスタントを問わず植民地・占領地伝道、あるいは軍部の依嘱による宣撫班の派遣などの協力を強いられ、一方、国民精神作興運動や昭和十五年以後の大政翼賛会の下に国民教化にも当たっていた。こうした日本のキリスト教団の戦争協力は、昭和十五(一九四〇)年に施行された「宗教団体法」の下に行われたといってよい。

日中戦争が始まって国家主義化が進む中で一九三九年一月一八日、平沼内閣は宗教団体法案を国会に提出した。全三七箇条の簡潔な法案で、神道、仏教、キリスト教、その他の宗教教団と結社の統制を目的として、教団の設立は文部大臣の認可を必要とし(第三条)、その宗教行為が安寧秩序を妨げ、または臣民たる義務に背く時は認可を取り消されることとなっている(第一六条)。しかし神社はこの法の外にあり、神社参拝を拒む者は取り締まるとの説明もなされた。(笠原芳光「宗教団体法」、『日本キリスト教歴史大事典』所収、教文館、昭63・2)

 一部とはいえ「キリスト教界には、この法律に宗教団体として「基督教」の文字が初めて入ったことを喜ぶ意見もあり、批判的見解は稀で、結果「カトリック教会は四一年五月三日付で日本天主公教教団として設立を認可され、プロテスタント各派は六月日本基督教団として合同、一一月二四日認可された」という。この宗教団体法によって、日本が国家として認可したキリスト教は「日本天主公教教団」と「日本基督教団」の二つのみとなり、カトリック教会はフィリピンなどの敵地カトリック国の宣撫や、信者の神社参拝の強制などに荷担することとなる。このような戦争協力の過去のためもあって、この時期のカトリック教会については積極的に語られることは少ないが、この戦時下に誕生した日本天主公教教団は、内地十二万、外地二十万の信者を含み、その事務所を「小石川関口教会」に置いていたという。つまり、足穂が昭和十八(一九四三)年から通っていた教会は、いわば日本天主公教教団の本拠地でもあったわけである。

 しかし、この時期足穂は、このような国家的規模の趨勢とは、およそ無縁な信仰生活を送っていたようだ。カトリック時代に発表されている足穂の文章を通覧しても、岩下壮一や吉満義彦ら当時の知識人カトリック者のように、カトリックそのもののあり方を問うような次元で宗教に取り組んでいるのでは全くなく、そうした知識人的な問題意識から足穂がカトリックへと接近したとは到底考えられない。むしろ、この時点での足穂は、ただ日々の苦痛からの救いを求めて、あるいは芸術家としての苦悩からカトリックに縋っていたのだとみてよかろう。その意味で、当時のカトリックの言説と足穂のカトリック時代の言説を直接結びつける短絡は避けねばなるまい。これらをふまえ、次節からは足穂とカトリック思想との直接的な接点から考察を進めていくことにしよう。


三  稲垣足穂のカトリック時代


 ここからは足穂がカトリックに傾倒したきっかけを、具体的に検証していくことになる。

 先の引用中でも見たように、足穂の回想では常に「十年来のカトリシズム」などとその期間が語られているのだが、本章では便宜的に、教会に通い始めてから京都へ出奔するまでの、昭和十八年から二十四年頃を足穂の「カトリック時代」として考察する*6。

 足穂は大正三年〜八年にかけて関西学院中学部に修学しているが、ここは明治二十二年にアメリカの南メソジスト監督教会のW・R・ランバス博士が創立したメソジスト系の学校であり、足穂のキリスト教との接点は古い。ただ、足穂のカトリック時代以前には、テクスト中での聖書の引用や、直接的なキリスト教的な信仰に基づいた発言は、ほとんど見られない。十四才から十九才の多感な時期をキリスト教系の学校で過ごしたことは、キリスト教に対する足穂の素養や知識を形成する上で、非常に重要なものであっただろうが、しかしそれはのちのカトリック時代の如き強い信仰心とは連結してはいなかった。

 直接的なカトリックへの傾倒の契機は、昭和十五年頃に知り合い、起居を共にしていた友人の画家、津田季穂の存在にあるといっていい。津田は後年次のように語っている。

 戦後初めて稲垣さんの本が昭森社から出ることが決まり、昭森社の森谷均さんの家を、二人で度々訪ねた。そして「山風蠱」が私の装幀で刊行された。その後現代思潮社から出された「弥勒」の中の「イエズスの春に」という日記風の文章に、Tとして私との関係が書かれているが、このことは稲垣さんとカトリックとの出合いとなる。
 ある時私は、カトリックの聖人伝を読んでいて一人の聖人に深く感動し、その著者であるフランス人の宣教師を大阪に訪ねた。冬の寒い日で、その神父は大きな手でストーブにたきぎをくべながらいろいろな話をしてくれた。戦争の終わり頃、特高にだまされて留置所に放り込まれ、体をこわして帰って来たばかり、私が東京から来たときくと、関口台町にあるカテドラルの主任司祭に紹介の名刺をくれた。
 一ヵ月程して、その名刺を関口教会の司祭館の戸口に立った司祭に渡すと、黙ってじっと見ていたが、やがて不思議そうな顔をして、「ちょっと前にこの神父さんは亡くなりましたよ」といわれ驚いた。それがきっかけで関口に週に一度カトリックの講義を稲垣さんと私、そしてAとKとがそれに参加するようになった。
 後に私はカトリックの修道者となり、AとKは受洗し、稲垣さんは洗礼は受けていないが、立派なカトリックだと私は思っている。「幼きイエズスの春」に書かれてあるのはこの頃のことだ。懐かしき思い出の一つである。(津田季穂「稲垣さんとの出合い」、『別冊新評 稲垣足穂の世界』所収、新評社、昭52・4)

 ここで津田が語っている『山風蠱』(昭森社)は昭和十五年六月に刊行され、また「イエズスの春」(『新生』)は昭和二十二年三月に発表されているなど、事実とは幾分かの齟齬がある。したがって、この証言についてはそれが回想であることを差し引いて考えねばならないが、津田が直接足穂をカトリックへと誘った友人であることは間違いない。津田自身、のちにカトリック修道会であるオブレート会の修道士となった人物で、この証言は足穂の「カトリックとの出合い」が第三者によって語られた唯一の資料として重要である。また、津田の証言は、「イエズスの春」の冒頭部分の記述と一致している。

 十三日にかぐら坂でTに逢つて、ブラジルへはいつた。彼は云つた。先夜Kが休んだので神父と話だけして帰つたが、云つておいたから十六日から行くがよからう。Kは、弟のTに倣つて此夏の初めから公教要理の勉強を始めた。Tはお正月に、「幼きイエズスのテレジアの自叙伝」を訳したブスケ神父を、西宮夙川におとづれた。B神父はTのために、小石川関口町の公教会S神父への紹介状をかいてくれた。

 このTが津田季穂であり、Kは津田の兄(季穂は十五歳で叔母の津田姓を継いだが、元の姓は神吉であった)、B神父は津田が夙川に訪ねたブスケ神父、彼が紹介してくれたS神父は小石川関口教会の沢出神父である。足穂は昭和十八年十二月十六日から、小石川関口町にある関口教会へ週に二回公教要理を勉強しに通い始めており、この日記形式の自伝的なテクストは、公教要理を勉強し始めた日から書き起こされ、翌年四月二十日「要理はひとまづ終つた。来週から改めて「信條」にさかのぼつてくり返される。」という文章で結ばれている。ここでは聖書や要理、聖人伝などを手に真摯に祈りを捧げる、当時の足穂の信仰生活の一端が描かれている。ここに登場するブスケ神父はM.Julien Sylvain Bousquet(一八七七―一九四三)で、遠藤周作に夙川カトリック教会で洗礼を授けた(昭和十年)人物でもあり、足穂が教会に通い始めた昭和十八年に死去していることからも、さきの津田のカトリックとの出会い自体は、信用に足る証言といえるだろう。ブスケ神父が翻訳した『幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝』*7は、津田のカトリックへの信仰のきっかけであるというが、足穂にとってもこの自叙伝の影響が大きかったことは、当時この聖人「幼きイエズスの聖テレジア」についてことあるごとに言及していることからも確認できる*8。

 また、この『幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝』とともに足穂がカトリックへ傾倒する契機となったものに、前章でも扱ったラファエル・フォン・ケーベルの著作がある。

 『津田季穂画集』(ベニウズ、昭43・11)には生前の津田や足穂と知己であった高橋睦郎作成の年譜が並録されているが、それに拠れば、津田は昭和四年頃「ケーベル博士に傾倒して、世界観の変化」があり、昭和十四年に「牛込横寺町に移る。稲垣足穂と知る。(中略)丸山薫、石川淳、辻潤、衣巻省三らと会う。」とある。また昭和十五年「稲垣足穂の「山風蠱」を装釘。」昭和十八年「七月十八日、関口教会沢出神父の司式で洗礼を受ける。洗礼名ヨゼフ。」などと記載されている。

 また津田の所属していたカトリック修道会オブレート会の会誌『ミッション』(二七五号、昭25・9)に、レオナルド・ロビタイ神父が津田季穂に関する記事を書いている*9。

それはキリスト教の信仰に導いてくれた。彼にとって、読書の中で一番魅力的だったのはケーベル先生のものだった。ケーベルはカトリック信者で、当時東大の先生をしていた。ケーベルの書物はカトリックの教えを強く伝えて、美術家である季穂の心に訴えるものがあった。これは彼が確かにカトリックの教えを受け入れた原因の一つである。/しかし、一番の原因は幼いイエスの聖テレジアの自伝である。これが、彼を教会の門まで導いたのである。

 ここでは、先の年譜で確認した通り、津田のカトリックへの傾倒の動機が語られている。ケーベルは既に物故しており「東大の先生」ではなかったが、津田はケーベルの著作に心酔し、足穂にしばしば彼の著作を勧めており、「弥勒」の中には「Tに奨められて、ケーベル博士のホフマン論、セラピオンの話を読んだ」といった記述も見えるが、足穂が津田季穂という友人を介して、ケーベルの著作を読み、その思想にふれ、そして更にケーベルを経由して信仰書なども手にしていた様子がはっきりと判るのは、こうした記述からである。

 一日、その数年来いっしょに公教要理の勉強をつゞけてゐた友人が、ボクにノウトを見せて、諸聖人や中世教父からの抜きがきの終りに写してある次のやうな文章を、よませた。(中略)「どこで見つけた文章か」とたづねると、「ケーベル先生の神と世界といふ論文に引用されてゐる」と云ふ。そのエッセーは、改造社版の円本中にあった。――あのヨハネ黙示録に出てゐる未来の宇宙的出来事、海はすでに無き天と地、新エルサレムの到来は、哲学上にも、はたまた自然科学上にも疑問の余地はない、云々とある箇所だった。(中略)ケーベル博士が別の所で推奨してゐた「ペテルブルクの夜」といふ本は、やがて探し当ててよんだけれど、信仰書だった。(「ボクの『美のはかなさ』――存在論的モザイック」『作家』昭27・8)

 津田や足穂にとってケーベルが、カトリック思想の一つの指針として捉えられていた様子が窺える。ここで触れられているケーベルの言葉は、「弥勒」論でも見たように『弥勒』(小山書店版)のエピグラフとしても掲げられている。

 ここまで何度か触れてきたケーベルとカトリック思想の関連は、これまであまり論じられることはなかったが、大正期から昭和十年代半ばを通じて名実共に日本のカトリック教会の中心人物であった岩下壮一も、このケーベルに大きな影響を受けている。

(引用者註――一高時代の岩下の)同級生には生涯の親友となった九鬼周造のほか、児島喜久雄、天野貞祐、和辻哲郎、三谷隆正などがあり、二級下の田中耕太郎も合わせて、岩下がいわゆる白樺派の世代の雰囲気を呼吸していたことを示している。明治四十二年東大文学部哲学科に入学、すでにカトリックに改宗していたケーベルと、卒業後も続くきわめて親密な師弟関係に入った。「自由とは人間における神的要素としての理性が正当と認める法則に服従することだ」というケーベルの言葉は、そのまま岩下の生涯の主張ともなった。フランス語に優れた岩下は、ケーベルとはフランス語で会話していたという。(中略)大学院時代の岩下はすでに将来の聖職者としての彼を予測させるように、宗教的観想、社会問題、カトリック信者の組織問題などへの関心を示している。大正三年、ケーベルの帰国に際して、友人久保勉とともに、ケーベルに従って渡欧の準備までしたが、大戦のために延期された。(『近代日本のカトリシズム』前掲)

 当時のカトリック教会における知識人啓蒙の中心にあった岩下壮一や田中耕太郎が「白樺派」的、「大正教養主義」的雰囲気の中で育ち、岩下などは直接的にケーベルからの影響を受けていたことが判る。

 ケーベルは来日する直前にロシア正教会からローマ・カトリックへと改宗しており、彼自身や彼の弟子である岩下壮一らの著作や活動が、大正から昭和十年代にかけて知識人に対するカトリックの言説の中心部分を担っていたといっても過言ではあるまい*10。少なくとも津田や足穂に関しては、公教要理や聖人伝といったカトリックの文献から直接的にカトリックへと接近したのではなく、ケーベルの著作などを一つの媒介項として利用していたことは明らかである。


四 Saint――反復されるモチーフ


 足穂は「カトリック作家」と呼ばれ、教会に通っていたにしても、同時代的な思潮の影響というより、当時の自身の生活に即した形で、友人を介し、ケーベルの著作を経由してカトリック思想を受容していたといえる。ではこの、津田季穂やケーベルの著作を経由した足穂のカトリック理解は、当時の自伝的なテクスト群において、具体的にどう反映していたのであろうか。ここでは先にも言及した「Saint」のモチーフについて、もう少し詳しく検討してみたい。

 それに当たり、カトリック色がもっとも前景化し、且つまた足穂のカトリック時代最後の自伝的なテクストで、足穂のカトリック理解が「説話風に」語られている、「神・現代・救い――説話風に」(前掲)に沿ってそのモチーフを確認しようと思う。

 この共通するモチーフでは、極度の窮乏やアルコール中毒による幻覚、禁断症状といった@直接的、身体的、精神的苦痛がまず語られ、それらがA「アクマ」、「悪魔」、「悪霊」、「Devil」といった存在へと客体化、概念化される。そしてそれらの苦痛からの脱却への一つの光明としてB「Saint」の発見が、神秘的な体験として語られるという一定のパターンが見られる。つまり、現実には経済的な困窮や中毒症状から出来している肉体的精神的な苦痛が、「悪魔」というキリスト教的な一つの概念によって捉え返されることで、問題が組み替えられ、これらの困難や苦痛からの脱出の方途が示されるのである。それがすなわち、極限まで理想化された道徳的存在である「Saint」という「クラス」(階級的存在)なのだといえる。

 このモチーフの中では、現実的な困窮や苦痛を、倫理的道徳的問題へと置き替える装置として「悪魔」が存在している。だからこそ「神・現代・救い」以外でも、足穂のカトリック時代の「悪魔の魅力」(『新潮』昭22・2)や「姦淫への同情」(『新潮』昭22・12)などといったテクストで、何度も「悪魔」という存在の意義が深く探究されているのである。稲垣足穂の中期における自伝的なテクストに特徴的な、極めて禁欲的な倫理観の導入に、「悪魔」は欠かせない存在であった。カトリック的な倫理観が導入する善悪の規準は、一方に悪魔を配すことで常に生活の中に罪の意識を喚起するのであり、足穂の初期のテクストにおいて全く描かれることのなかった告白(=内面)が中期に至って私小説的な、自伝的テクストの中で盛んに描かれるようになるのは、カトリックへの傾倒と無関係ではない。あえて極言するならば、このカトリック的倫理観の導入こそが、足穂が昭和十二年頃から日記形式などを繰り返し用いることで試みていた「リアリズムの世界」を描く長編(自伝的小説)を安定的に定着せしめる「内面」の発見であり、それによって中期の自伝的テクストが量産されたのだ。

 この「悪魔」は「神・現代・救い――説話風に」によれば、「アクマとは天使の堕落した者」であり、ちょっとした「傲慢心」によって、「永劫に赦されぬ地獄に陥れられてしまった」存在である。このような「傲慢心」はアダム以来の原罪を背負う人間的存在にとって不可避であり、「およそ道徳的生活の基本となるべき信仰上のことに関しては、その体験が強い度合に応じて、それをきいた者にはバカバカしく受取れる。(中略)これ、われわれが欲情に傷つき、アクマのとりことなっているからに他ならない。」といったように、「悪魔」が導入する倫理的道徳的問題は、日々の個々人の力では解決し得ない。ここで必要とされるのは一つの飛躍である。つまり、聖寵、恩寵としての神秘体験(=「Saint」の発見)による飛躍のみが、原罪に堕した人間的存在からの、脱出の隘路なのだということになる。

 この「Saint」という「クラス」(階級的存在)の存在は、「弥勒」などにおいては一つの光明であり、恩寵であったが、しかしそれが恩寵として機能しえたのは、足穂の自伝的テクストにおいても短い期間でしかなかった。なぜなら、足穂が語る「Saint」の発見は飽くまで、現状のような窮乏生活を送っていても聖人(聖者)の如き尊い存在になれるかもしれない、自分のような生活を送るものの中にも聖人(聖者)の如き人がある、といった蓋然性の発見であり、それだけでは恩寵による神の愛を受けて救われたのだとは言い難かったからである。

 その為に足穂のカトリック時代の自伝的なテクスト群において、同じモチーフが変奏され、繰り返されたのだともいえよう。だが結局は「出口だ、出口だ、出口がほしい!」という叫びも虚しく、再び肉体的精神的苦痛に埋もれていかねばならないというのが、「神・現代・救い」という「カトリック時代」最後のテクストが示している苦悩であった。

 このような終わりのない苦悩が次第に手を伸ばしたのが、キリスト教神秘主義であった。「神・現代・救い」においても、カトリックの名の下に「カール・ヒルティ」や「キェルケゴール」といったプロテスタントの思想家ならまだしも、「グスタフ・フェヒナー」や「ギュイヨン夫人」、「ショーペンハウエル」、「スエーデンボルグ」、「オリヴァ・ロッヂ」といった神秘主義(心霊主義)の思想家といわれる人々の名前までもが続々と登場する。足穂は教会を離れた*11昭和二十一年頃の蔵書に「千葉で手に入れた和装の鈴木大拙訳『天国と地獄』と、神田の基督教古本屋で見付けたイング博士の『基督教神秘主義』と"Life of Madame Guyon"」*12があったとしており、「クリスチァン・ミスチシズム」(=キリスト教神秘主義)についても当時しばしば肯定的な評価を加えている。

 "Life of Madame Guyon"――先日神田の松崎で見つけておいた本を買つた。ギュイョン夫人の名はショウペンハウエル中に知り、のちにQuietismの本尊であることが判つた。ローマ教会から見ればそれは異端であり、弊害をもたらしたでもあらう。けれども夫人その人としては、どうか?私は個性の絶対的色合ひとして許されるべきものがそこにあることを信ずる。いはゆるクリスチァン・ミスチシズムがそれであるが、といつて、この種の完全に堕落したのに東洋の禅のごときものもある。(「雪ヶ谷抄」前掲)

 こうした足穂の神秘思想への関心は、のちのテクストでは改稿に際して大半が削除されているが、しかし、この時点でカトリック思想と完全に矛盾するものとはされていない。ではこの「個性の絶対的色合ひとして許されるべきもの」と足穂が認める「クリスチァン・ミスチシズム」は、どういったものであろうか。ここでひとつひとつの思想を概観する余裕はないが、一つ言えることは、「フェヒナー」も「ギュイヨン夫人」も「スエーデンボルグ」も「オリヴァ・ロッジ」も押し並べて、死後の「次なる世界」を積極的に語る神秘思想家だったということである。そしてこのような「クリスチァン・ミスチシズム」が足穂にとって説得力をもって感じられていたのは、これらの神秘思想が再び、ケーベルの言葉によってカトリック思想に統合されているからだと思われる。

ケーベル博士の随筆中に見つけた二カ所の文句が、私のあとおしをしてくれた。「あらゆる異教的なものを繭脱して、キリスト教的世界観へ到達するのは、人間精神発達の当然の過程である」(「神・現代・救い――説話風に」)

 この言葉は、『弥勒』(小山書店版)にエピグラフとしても掲げられ、足穂が幾度となく繰り返し言及している「改造社の円本中にあつた」ケーベルの「神及び世界」の一節と明らかに共鳴している。「弥勒」論と重複になるが、この重要な一節を再びここに引いておこう。

 普通よりも一層幽妙(フアイン)なる意味に解せられたる進化論の立脚地から――例へばベルシェの立脚地から――見れば、「新しき天」と「新しき地」との黙示録的幻像(アポカリプテイツク・ヴイジヨン)は、未来の宇宙的出来事――それが間違なく起るといふことは哲学にとつても将た又自然科学にとつても疑問の余地がない――の予観(Vorausschauen)と思はれる。(中略)何となれば如何なる進化も進化としては、その概念の性質上、一つの終局を有たなければならない、即ちその目標に、その目的に到達しなければならないからである。
 進化の概念から到底削除し得ざるこの目的性を解して内在的とするか或は又超絶的とするか、それは各人の随意であるが、――終局なき進化(目的なき目的性)に至つては竟に一箇の奇怪なる譫語(ノンセンス)たるを免れない!――宇宙の進化過程の終局、即ちその最後の結果は、正に絶対に完全なる世界であり、「新しきエルサレム」であり、神の国である。(『現代日本文学全集』第五十七篇所収、改造社、昭6・12)

 ケーベルが右のような目的性、即ち神の理性(=絶対的な合目的性)を総ての「宇宙的出来事」の裡に見出す時、神秘主義的な言説は「あらゆる異教的なものを繭脱して、キリスト教的世界観へと到達する」、つまりキリスト教の「神の国」の到来という言説に統合されるのである。

 現実世界においても止まない窮乏とアルコール中毒、そしてカトリックの教えにおいても容易には避け得ない原罪に苛れて「人間的存在それ自身が心もとない」という時、足穂が縋るのはケーベルが媒介するところの神秘思想の、絶対にやってくるはずの「神の国」の存在であった。それを信じる限りにおいて、「永遠の人たらんとする念願が兆したときにはカトリック」(「神・現代・救い」)といいうるのである。このような思考の下では、現実の如何なる苦悩、苦痛も「神の国」に至る必然の行程に過ぎず、現状を括弧に入れ、神を信じる限りにおいては、それは大きな光明となったであろう。

 足穂のカトリック思想との接点がケーベルの著作を経由したものであったことは、ここまで見てきたようなキリスト教神秘思想との親縁性をそのなかに内在させていた点で、足穂中期の自伝的なテクスト群を論じる際にも、常に配慮しなければならない大きな問題を含んでいるといえる。

 本稿では、先行言説においてもいわば空白地帯でほとんど知られることのなかった、足穂のカトリック時代を検証し、カトリック思想との接点を掘り起こすとともに、当時数多く書かれた自伝的なテクスト群を、反復される「悪魔」→「Saint」のモチーフが内包する構造から分析した。それによって大正期から昭和十年代にかけて、知識人がカトリック思想へと接近する媒介項として、ラファエル・フォン・ケーベルの存在の重要性をも示唆できたと考えている。また足穂のカトリック時代に顕著なモチーフの分析から、肉体的精神的な苦痛が、傲慢心や原罪として、倫理的道徳的問題へと置き換えられ、神の恩寵としての神秘体験が語られるという、モチーフそのものに内在する極めてキリスト教的な要素を確認した。それと同時に、足穂の関心がカトリックの枠を越えて、神秘思想へと向かっていたにもかかわらず、それらをカトリック思想との矛盾として捉えていないことに着目し、死後の「次なる世界」を積極的に語る神秘思想をカトリック思想へと統合する存在として、ケーベルの黙示録的な言説が機能していたことを指摘した。足穂中期の自伝的なテクスト群において、このカトリック思想が導入したリゴリスティックで禁欲的な倫理観は、初期のテクストでは退けられていた「内面」=「自己」=「人間」を仮構し、足穂中期の「リアリズムの世界」を生起させたものとして、今後個々のテクストを論ずるにあたっても留意すべき問題であったといえよう。

 今回注目した「神・現代・救い――説話風に」というテクストは、足穂の中でカトリックから神秘思想、そして実存哲学へという過渡的な思考の痕跡を記録した唯一のテクストであり、足穂の当時の思考において、実存哲学への傾倒が、カトリック思想の経由なしでは有り得なかったと認識されていたことを示すものとして、新たな視点をもたらすものだったといえるだろう。

 ただ、最後にその実存哲学についてもふれておかねばならない。「人間的存在それ自身が心もとない」という言葉は、神の前のキェルケゴールの絶望よりは、ハイデガーのいわゆる「存在の不安」と対応している。「神・現代・救い」の末尾にも記されているように、のちの足穂の実存哲学への傾倒を予告している。それは「ボクの『美のはかなさ』――存在論的モザイック」(前掲)などで、ハイデガーを乗り越えるべく「超存在論」を構築したオスカー・ベッカーの哲学を、自らの関心に引き付けながら追究していくことになる。しかし、だからといって研究は足穂の中での内的な連続性、カトリックから神秘思想へ、神秘思想から実存哲学へといった思想の連関を、そのまま作家の持続的な一貫性へと仮構することは極力避けねばならないだろう。この足穂のカトリック時代の最後に見られた実存哲学への傾倒や、京都時代以後の仏教への傾倒も、その時代毎のコンテクストにあたって個々に検証されねばならないことはいうまでもない。

*1 そのほか、山本浅子「稲垣足穂と梁雅子」(『新潮』昭35・8)等で足穂は「カトリック作家」などと言及されている。

*2 稲垣足穂「東京遁走曲」(『本の手帖』昭40〜41)参照。足穂はしばしば棄教の契機を、「S・H」(萩原幸子)のこの言葉に求めるような記述を残しており、それに基づいてカトリックのリゴリズムを、足穂が信仰から遠ざかった原因とみるのが、これまでの通例であろうと思われる。

*3 稲垣志代『夫 稲垣足穂』(芸術生活社、昭46・10)参照。

*4 足穂のテクストの中で「Saint」という語彙が初めて登場するのは、恐らく「弥勒」(『新潮』昭15・11)であるが、これは加筆、改稿後の『弥勒』(小山書店、昭21・8)での「Saint」とは指示する内容が微妙に異なっていると思われる。『新潮』版でも「Saint」の語は、ショーペンハウアーの思想との関連で登場するが、こちらでは極限に近い窮乏生活にあった現状を修行者に見立てることで肯定しようとする、やや東洋的、仏教的なニュアンスが含意されていた。それに対し小山書店版では、後述するケーベルのエピグラフが引かれ、その修行者(Saint)は、「神の国」に至る一つの過程であると読み取れる、キリスト教的なニュアンスの指示内容へと「Saint」の意味が微妙に推移していることが、改稿や周辺のテクストの記述から看取できる。そして本章で考察する「Saint」のモチーフが何度も反復されるのは、厳密にいえば昭和二十一〜二十四年の間、キリスト教的なニュアンスを賦与された期間においてである。

*5 本間也寸志「足穂ノート――中期小説の問題」(『成城国文学』平元・3)参照。

*6 稲垣足穂とカトリック思想との親近性は、昭和十五、六年頃のショーペンハウアー思想との再会などから確認できないわけではないが、やはりはっきりとカトリック思想の影響がテクストに顕在化するのは、教会へ通い始めた昭和十八年以降であり、とりわけ昭和二十一年頃から昭和二十四年までの短い期間に強く顕れている。
*7 ブスケ神父は、明治四十三年頃から繰り返し「幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝」(書名は上記に限らない)を教会から出版しており、津田や足穂が読んだものがどの刊本であったかは特定できない。
*8 当時の「幼きイエズスの聖テレジアの自叙伝」への言及の一例をあげておくと、「神楽坂時代は恵まれてゐたのでなかろうか。何故なら、寒中、単衣物で顫へながら夏期用掛布団一枚にくるまつて、『イミタティオクリスティ』や『小さきテレジアの自叙伝』を読むなんていふ芸当が、一体何人の如何なる折に許されようか、と思はれるからだ。」(「方南の人」『文壇』昭24・1)という記述が確認できる。

*9 この記事の一次資料の入手が極めて困難なため、やむを得ず以下にある、オブレート会のHPに掲載された津田季穂の「死亡名簿」から転載させて頂いた。レオナルド・ロビタイ「1953-1981 Bro.津田季穂」(http://www.omijapankorea.net/ja/departed/tsuda.html平18・9・20参照。)

*10 岩下のカトリック言説はその立場上、護教論的な傾向が強く、特に内村鑑三ら無教会主義への批判は手厳しい。これらアンチ内村鑑三の傾向は当時のカトリック知識人に共通しているといえる。岩下壮一『信仰の遺産』(岩波書店、昭16・10)、同『カトリックの信仰』(講談社学術文庫、平6・6)等参照。

*11 足穂は昭和十三年五月頃から、東京牛込横寺町にあった東京高等数学塾の二階の一室に住んでいたが、昭和二十年四月の東京大空襲によって罹災、池上徳持町の友人宅に身を寄せている。当時徒歩しか移動手段のない足穂にしてみれば、小石川関口町の関口教会にはもはや通えず、その後も昭和二十年六月に南部線稲田堤の農家、ついで横浜弘明寺に転居、同八月に池上の自動車工場雪ヶ谷寮へ、翌年一月池上線長原、同四月青梅線中神、同六月金親清の紹介で千葉駅前の房総民主文化連盟の事務所と居を転々としている。当時生活能力もなく、家賃など払う当てすらない足穂は、絶え間なく転居を繰り返さざるをえない状況にあり、現実問題として教会へ通うことができなくなっていたと考えられる。

*12 稲垣足穂「東京遁走曲」(前掲)。引用中の「鈴木大拙訳『天国と地獄』」は、スエデンボルグ著・鈴木貞太郎(大拙)訳『天国と地獄』(英国倫敦スエデンボルグ協会、明43)、「イング博士の『基督教神秘主義』」は、W・R・イング著・磯田信夫・中川景輝訳『基督教名著集第五巻 基督教神秘主義』(イデア書院、昭4)であり、どちらもキリスト教神秘主義に関する著作である。